Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

【雑談】ナナメの夕暮れは遠い

おことわり

最近のことをバラバラに書く。

ナナメの夕暮れは遠い

人間は変化していくものである、ということはオードリーの若林正恭さんを通して学んでいるかもしれない。あとはバンドの変遷が該当する。

芸能人やバンドに対して、売れる前のほうが、インディーズ時代のほうが好きだったという意見を述べる人は少なくない。が、彼らが人間であるということを前提にしたら人間がその考え方を変えていくことは一般論として当たり前であって、売れることで華やかな世界に行き、環境が変化するのであれば尚更自然な流れであると思う。

補足はさておき、そんな若林さんの最新エッセイ『ナナメの夕暮れ』を読んだ。私自身テレビを観る時間は少なくなったが、ラジオを聴いているに、若林さんは2008年の「M-1グランプリ」できっかけを掴んでから「人見知り芸人」としてポジションを確保した当時とは想像できないくらいに活動の幅を広げている。たくさんの芸能人がひな壇に並ぶような番組や、(おそらく彼が苦手だったであろう)高い志(≠意識高い系)を持った人に密着した番組のMCを務めるようになっている。「オールナイトニッポン」自体も10年を迎えようとしているくらいだから、相当な時間がいつの間にか積み重なっていることがわかる。

前述したように、若林さんはこの期間で大きな変化を遂げていることが、『ナナメの夕暮れ』や『社会人大学人見知り学部 卒業見込』などで語られている。人見知りと芸人という両者が共存することを証明し続けていた時代もあったが、今では人見知りであることを自称するのは違うんじゃないか、という段階までパーソナリティの変化があり、人目が気になっていた時期からは想像できないような趣味や習慣も持つようにもなったという。

書籍の内容についてはあまり書くつもりがないが、私は若林さんのこうした変遷を知ることにより、どこか安心した心情になった。

私自身が人見知りであり、他人がどう見ているのかが過剰に気になり、他人の行動に対しても恥ずかしさを覚えるくらいに過敏であることで生き辛さを日々感じている。しかし、そういったデリケートな精神も、いつかは「諦めがつく」ようになるのだろうか。他人が気にならなくなるのだろうか。今は恥ずかしいと思っている行動が取れるようになるのだろうか。自分の利益を堂々と優先できるようになるのだろうか。

ゴルフに興じたり、DJセットを自宅に買ったり、うまくいかなかった日に車の中で叫んだり、という行為に相当することを自分がするようになるのだろうか。そんなことを考えると、まだまだ先は長いように思えた。若林さんが今の私の年齢であったときのことを考えれば、今は今の自分が思うように、むしろ刺々しく苛立っているべきなのかもしれない。

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

テレビで育っていることを実感する

現在はテレビを観ることがすっかり少なくなっている。CS放送はもっと観なくなり、番組を見逃したら見逃したで仕方ないなと思えるようになったので、JCOMを解約し、録画機能付きのチューナーも返却してしまった。テレビの代替としてインターネット配信が台頭しているが、私もDAZN新日本プロレスワールド、Amazonプライムビデオなどに使う時間が増え始めている。かくいうテレビ放送だって、TVerで事足りるし、TVerで配信されていない番組は、それはそれで諦めがつくようになった。

それでも、物心ついてから大学生になって一人暮らしを始めるまでの間はテレビを観ている時間がもっとも長かったと言える。別にテレビの変遷をすべて観てきた、という程ではなく、興味のないドラマに関してはほぼすべてスルーしているが、とくにバラエティに関してはもう純粋な視点では観られないくらいには馴染んでいると思う。

これに対して自分が実際に人と話すことが不足しているからなのか、テレビ上での会話がスタンダードであると思い込んでいるからなのか、日常では常々戸惑うことが多い。とくに飲み会の場は「話して良いことの基準」で困惑する。あらかじめ書いておくと、どこどこの飲み会でこういうことに遭遇した、という話ではない。大学もそうだし就職してからもそうだし、飲み会全般でこういう感情になる、ということを書く。

テレビ上で人が会話しているときは、(編集のフィルターを通してはいるが)言って良いことと言ってはいけないことの基準に沿って繰り広げられていることが感覚的にわかる。ネガティブに聞こえてしまうような発言をする際は、フォローやネタバラシ(これはいじりとして言っているんですよ、相手方も理解していますよ、といった感じ。まあ「これを言わなくちゃいけないのか・・・」という呆れみたいなものも見受けられる)がセットになっている。

これはラジオ上になっても変わらず、パーソナリティや出演者は多くの人が聴いているということを意識しながら言葉を選択している。たまにそうじゃない人もいるが、大抵は番組内のどこかでバランスを取るように調整が行われいてる用に感じる。下ネタや下世話な話題は、深夜帯やもともと視聴ターゲットを絞っていることを前提としている。AbemaTVの下世話っぷり、下品っぷりに対していちいち怒るほうが虚しいことになるのは、番組制作側が最初から視聴ターゲットを絞っているからである(そもそも面白くない、地上波でできないことと標榜してこの体たらく、とかいう話は別として)。

私はこうしたテレビやラジオによる会話の仕方を無意識に吸収している。そのため、これは言わないほうが良いのでは、言う際にはフォローしなければならないとか、一人が話すときはしっかり区切りがつくまで話してもらうようにする、とか考えながら会話に参加していることが多い。結果として、考えすぎていて何も話していないし考えていないような態度になる。

そして、とくに飲み会の場になれば、バランスをとって話そう聞こう、という押し引きはそこまで見受けられなくなる。一人が自由に話し突然ぶつ切りになり、話の途中で割り込みが入り、絶対に変な空気にしかならないような下ネタが投下されたり、私が手本としている空間からするとまるで配慮が内容に感じられてしまう。

他にも、一般的には10くらいの個性が内輪のコミュニティであることにより100くらいの強い個性だと誇張されてイジられたり、もう味がしないだろう話題をひたすら繰り返したりといった光景が繰り広げられる。「ボクらの時代」や「グータンヌーボ」を目標に置いている私からすると、どう関与して良いのかまったく分からない空間ができ上がることにより、最終的に会話に参加することを諦め誰も手を付けない料理を必死に片付ける一人フードファイトが始まってしまう。

かといって、テレビの会話メソッドを飲み会に持ち込むことが悪であることも認識している。それはいわゆる「MC気取り」に繋がるからである。空間における文化を理解し参加しなければならないが、理解する、あるいは諦めがつくような日は暫く来ないんだろうし、自分の思想に怒る変化の成り行きを待つしかない。

外れ続ける「知り合いかも」

ブログで何回か書いている記憶があるが、私は大学2年目から5年目の半分くらいまでうつ病に陥っている。診療に行けた回数も数えるくらいしかなかったので、具体的にどのくらいの状況だったのかを客観的な指標に沿って書くことはできないが、「思えばあの時からおかしかった」ときから「コンスタントにバイトへ行けるようになった」ときを判断材料にすると、だいたいこのくらいの期間になる。

回復するにあたり、今でも分からなかった選択として、「繋がりを断ち切る」というものがあった。家族や近しい友人を除き、だいたい500人以上あったFacebook・LINEの友人や、メールアドレスや電話番号のほとんどを解除、削除し、Twitterを始めとした実名を使っていなかったSNSはアカウントごと削除した。自分の人生をやり直すくらいの覚悟を持たないと再び駄目になってしまうという恐れを抱いていたし、過去の関係が継続していることが再度精神を崩すきっかけになりうると考えていたからである(うつのトリガーが人間関係だったのかは今でも判断がつかないが、可能性がある限りは、と考えていた)。結果として、LINEの友達登録が20に満たないという、20代でこんな数字果たしてどうやって叩き出すのか、という驚きの記録を残すことになった。

その結果、Facebookではおもしろい現象が起こった。「知り合いかも」というFacebook上では繋がりがないが、もしかしたら現実では知り合いもしくは顔見知りなんじゃないですか?という可能性があるユーザを表示してくれるお馴染みの機能であるが、この機能の正確性ががっくりと落ちてしまったのである。

どうやらこの機能、一度登録したけどその後解除したユーザが表示されることはないらしい。これを除くと機能側としてはまったく手がかりが見当たらない状況になり、住所が近いとか、公開範囲が広いだけでなんの繋がりもないユーザ、卒業した大学に在学中だけど知り合いな訳がないユーザなど、まるで見当外れなサジェストが立ち並んでいる。

大学生になってFacebookを始めた当初は、「知り合いかも」に知っている名前が続々と登場していたことを鑑みると、あのころは人間関係を開拓することに関してのハードルが低かったんだろうな、と感じる。あのサジェストが弾き出した命中率の高さは、自然と知り合いが増えるような仕組みの中に組み込まれていたということを意味しているのだと思う。

対して現状は友人関係を広げるためのきっかけを所持していないことを意味しているのだから、自分からコミュニティやイベントに参画しない限りは一生このままだぞ、と言われているような気がする。過去の人間関係を振り返ることは除いて。

テキスト校正くん

最近のブログは「Visual Studio codeVS code)」というエディターで書いているが、「テキスト校正くん」という便利な拡張機能があるので、早速導入して言われるままに修正してみた。果たして読みやすくなっただろうか。主観的には分からない。そもそも誰も読んでいないのでは。

文章作成・メール作成に役立つ! VS Codeの拡張機能「テキスト校正くん」をリリース - ICS MEDIA