Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

オリンピックの水球を見事に解説した、じゅんいちダビットソンに学ぶ「教えすぎない」という極意

 

こんにちは。

 

リオデジャネイロオリンピックがついに終了となり、やっぱり五輪は特別だな!と。毎回始まる前はなんやかんやあったり、今回に関してはなんだか助走もなくいきなり始まった感覚がありましたが、終わってみれば熱狂し尽くした!そんな満足感が残っています。スポーツというこの世にたったひとつの、予定調和が存在しない文化はこれからも永遠に生き続けるということを再び実感しました。

 

 

ネット解説に登場したのはモノマネ芸人

 

名場面だって枚挙に暇がないという中で、個人的に最もサプライズだったのが、NHKオンラインのネット中継で配信された、「水球女子・決勝(結果アメリカが金メダル、イタリアが銀メダルに終わった)」に、解説として登場したじゅんいちダビットソンさん。

 

現在はサッカーの本田圭佑のモノマネでR-1ぐらんぷり優勝経験を持つなどの実績を持ち、モノマネ以外でもバラエティの様々な場面で高い適応力を見せるじゅんいちさんですが、実は高校時代は部活動で水球に打ち込んだ経歴を持っており(それを生かして、体育会TVの企画でオードリー春日さんと共にフィンスイミングの海外大会に出場もした)、今回のブッキングに繋がったようだ。

 

NHKの会議室から配信している」という一風変わった形の解説となったが、そこでじゅんいちさんが見せたのは、姿形、掴みどころのないマイナースポーツを少しでも分かり易くしようという気持ちから現れる、一般視聴者にはありがたい気遣いの数々。

 

試合前には、「(ネット放送をスマホから観ている人もいると思うので)『ゼッケンナンバー何番』とかは見えないので言いません、『あいつ』とか『こいつ』って言います」と宣言し、様々な視聴形態を想定していることをアピール。

 

ファール(反則)に関しても、「軽いファール、重いファールなどがあり複雑だが、『いらんこと』『もっといらんこと』ということにします」と分かり易さを何より重視する姿勢を見せた。

 

そして、全体を通して流石、と感じたのは、ゲームが進行していくに従って徐々に細かい、深い水球の見どころを紹介していく、という段階的な手法にありました。始めはシンプルに基本的なルールを試合の流れに沿って解説していきながら、常に泳いでいなければならずない水球という競技の過酷さ、

 

ゴールキーパー以外はボールを片手でしか扱ってはならないという意外なポイントや、片手のみだからこそ生まれる多様なシュートのスタイルを一生懸命に伝え、

 

フォーメーションをはじめとした戦術面は、自身がネタとして扱うサッカーと比較して、共通点や異なる部分を解説(本人はサッカーに関する知識はそれほどないそうですが)。

 

重い反則があり、「この場面は絶対に決めないとツライですね」や、「これは相当凄いプレーですよ!」といったコメントは、どう観たらいいのか分からない視聴者にとっても、試合の「ヤマ」がはっきりと分かったので、かなり効果的でした。こういうのはいわゆるプロフェッショナルの解説がなかなかしないタイプの言及でもあるので、じゅんいちさんならではの角度だったのではないでしょうか。

 

 

 

どうしても「教えすぎたくなる」欲求を抑えたい

 

今回のじゅんいちさんは本当に素晴らしい役割をこなしていたのですが、スポーツに限らず、マイナーな文化・コンテンツをほかの誰かに伝える、という場面に立ったとき、我々はどうしても前のめりに話してしまうなあ、という反省が浮かんできました。

 

たとえば、専門用語や人名は、何も知らない相手にとってみたら、未知の言語か呪文のように聞こえてしまいます。ちょちょちょ、待ってよそれ何?となっている相手に対して、前段の知識を前提として更に話を進めていくから、相手にはもう嫌悪感しか残らない・・・そんな失敗例は世界中の至るところに転がっている筈。

 

本当に相手に対してそのコンテンツの面白さを伝えたいのであれば、じゅんいちさんのように、徹底的に聞き手の視点に立って順序建てを考えなければならないのです。

 

 

 

マニアが面白がる所、初心者が楽しい所

 

こうやって、急ぎ足ででもどんどん教えてあげよう!という間違いをおかしてしまうのは、大体は誤った親切心から来るものだとは思うのですが、一方には、このコンテンツのここが面白い!という部分が、文化に精通したマニアと、殆どを知らないよ、という初心者では全く異なる、という部分にあると思います。

 

スポーツを例にすれば、マニアは、基本的な部分を知って、何度も競技を見てきた、体感してきたことによって、いわゆる定石から外れたような瞬間に面白さというか、カタルシスを感じたりもします。

 

しかし、初心者にとってみたらまずは基本の面白さというものを体感してみないと、そういった段階にたどり着くことは永遠に不可能です。まずは分かり易い面白さ、分かり易い見どころを伝えないと、聞き手はコンテンツを好きになってくれるどころか、二度近寄らないようにしよう、と決意させてしまうかもしれません。

 

我々が、学校にて歴史の授業をどのように受けてきたか、ということを思い出してみると、小学校、中学校、高校と上がるにつれ、同じように太古から平成へと時代を辿っていても、次第に内容が深くなっています。例えば、中学校では聞いたこともなかった人物や建造物が、高校の日本史で次々と登場してきます。

 

最初は歴史の基本的なハイライトに始まり、だんだんと分け入った、細かくも大切な内容に至る。この流れは、初心者にコンテンツの面白さを伝えるということにおいても、重要な心得として覚えておいた方が良いかもしれません。

 

 

夏のクラクション

夏のクラクション

 

 

セクハラにカウンターしないで欲しい

 

こんにちは。

 

とりとめもなく書いていきます。

 

関東は台風に見舞われて、というか関東だけじゃなくて日本全国こんがらがっている感じで、正直まだ就職してなくてよかったなあとか思ってしまいます。働いていたらとんでもない状況でもない限り出勤しなくてはならない訳で。というか、とんでもなかったところでやっぱり行かなくてはならない、という立場の人も居るんだろうなあとか思ってます。・・・だから何?

 

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分かりにくいサムネ。正解は画像をタップしてね。

 

 

×趣味が多い ○趣味がコロコロ変わる

 

私は趣味が多いんですが、最近気づいたのは多いというか単純にコロコロ変わっているだけなんじゃないか、という説。うわ、「説」で〆ると完全に水曜日のダウンダウンにハマってる人っぽい。最悪だ。嫌いってわけじゃないんだけど、タチの悪いお笑い好きやテレビ好きがこぞって絶賛しているから、あの界隈にあんまり近づきたくないんですよね。あの偉そうな褒め方なんなんすかね。

 

あと、水曜日のダウンダウンに関して言うと、普段テレビを視ない層も結構絶賛していたりしますね。「テレビはほとんど見限ってるけどあの番組は違うね」みたいな賞賛の仕方をしてるのがもう地獄でしかないんだけどね。怖えよ。2次関数的にインターネットに評論家が増えている現代が怖えよ。

 

そういえば、サマーソニック水曜日のカンパネラが出てたみたいで、やたら興奮している人がチラホラいました。私は最近新しい文化に共感する能力がどんどん欠け始めていて、本当はいっしょになって楽しみたいんだけどどこか着いていけなくて悔しいです。

 

捻くれ者なんで、流行りのものに対して、その輪になかなか入っていけない人間なんですが、本当はどんどんのめり込んでワーキャー言ってたほうが絶対に楽しいんですよね。脳から色々な良い成分が出て、きっと健康で活発な人生を送れることは間違いない。ただ無理やりにそういう路線に乗っかることが出来ないというのが辛くも面白いところなのかなあ、とかも感じています。

 

 

m4usta13ng.hatenablog.com

 

で、趣味の話に戻るんだけど、ここ最近はずっとラジオにハマってたんだけど、だんだんと必ず聴く!という番組が減ってきて、やっとちょうどいい感じになってきた。

 

 

 

タイトル回収

 

どうも自分はセクハラの空気がする場所が好きじゃないみたいで、昔下ネタが嫌い、という記事を書いたこともあるんだけど、ラジオなんて下ネタの開放によって成り立っている部分もあるくらいだから、なんといか下ネタが悪いんじゃなくて、誰かに対してセクハラをしてやろう、という感覚がダメなんだなあ、と思った。だからおぎやはぎの番組を聴けなくなってしまったんだけど、番組として滅茶苦茶面白いのは確か。しがない一人の聴収者がなんかいったところで全く関係ない。

 

m4usta13ng.hatenablog.com

 

誰かに対して矛先が向かっているのか、というのが、自分がセクハラと判断する、一つの基準なのかもしれない。そして、セクハラが自分に向けられていなくても(というかそんなことはほぼ無い)、誰かに向かっていることを、自分が確認した時点ですごくつらくなってしまう。たとえ、その対象者が平気そうな顔をしていたところで、だ。どう考えても自分が落ち込んだり不快感を覚える理由はないと思うんだけど、理性より先に感情として発生してしまうから、表には出さずともどうしても振り切ることが出来ない、イヤーな感じが巻き起こってしまう。

 

 

 

カウンターセクハラも嫌い

 

あとは、だいたい男性から女性に対してセクハラがまず先攻されるんだけど、それに対して女性側がカウンター的に受けたセクハラを上回る下ネタをかましたり、全然平気ですよ、という姿勢を見せつける光景というのが、それはもう恐怖しかない。「セクハラそれ自体」よりも「セクハラが巻き起こっている場所」がより嫌いだから、こういうカウンターはセクハラの火が拡大して勢いよく燃え上っているシーンとして自分の目には映ってしまう。

 

カウンターすることの意図は理解できる。攻撃を受けっぱなしだと自分にダメージが残ってしまうから、ここで乗っかることで、自分が受けたダメージを無かったことにしたい、ということなんだと思う。UNOで自分にドロー2が来たときに、自分もドロー2を出して自分以外の誰かにブン投げる、ということと似ているかもしれない。で、そのドロー2の山をぶつけられているのが、もしかしたら自分なのかもしれない。

 

希望としてはカウンターなんてしてほしくないし、受けっぱなしで落ち込め、とは言わないから迅速に消火してほしいなあ、と思ってる。けどたいていの場合、そういう風にはならないんですよね。

 

こういうところを振り返ると、自分は女性に対して、セクハラを嫌悪してほしい、シャットアウトしてほしい、という女性像の押しつけをしているのかもしれない、という風にも感じる。これは私のダメなところだと思う。凄いダメ。最悪。ゴミ。糞尿。

 

セクハラを受けた側は、自分が最も傷つかないように行動を選択すればいい。だから、はっきり拒絶するというのもあるし、今書いたようにカウンターをして、先にセクハラを仕掛けた人間をビビらせちゃう、という方法も全然アリだ。しかしそこで自分は「セクハラの拡大」を感じてしまう。誰もここからセクハラの空気を鎮める人が存在しないのである。で、傍観者である自分は、勝手にどんどん傷ついていく。振り返ればよくわかんない歪な状況だ。

 

単純にもっと慣れていかないとダメだなあ、と思う。これから大人になって、残念ながら100%自分の感情を押し出すことが出来る場所というのはどんどん減っていくことになるからだ。このブログだってどこまで続いていくのか分からない。マズイ、ということになったら、さっさと消す必要もあるくらいだし。

 

あと一つだけ文句を言わせてもらうとしたら、単純にセクハラってつまらないってことが一番問題なんだよね。笑えない。スベってる。気持ち悪い。帰れよ。ダッサ。腹爆発しろ。なのに言っている人間だけが楽しくなっちゃう。だからどんどん人間同士のズレが増していく。楽しくなっちゃってるからセクハラが続発する。周りもなんか負けたくないのか、セクハラを言う側になって楽したいのか分からないけどどんどん乗ってくるから、最終的に地獄が完成していました、ということになってしまう。

 

ラジオの下ネタでは笑える身としたら、面白かったらオールオッケー、みたいな曖昧な基準は実際に存在しているんだと思う。しかしそのラインは(競泳の世界記録ラインみたいには)見えないし、シチュエーションによって変化しているから悲劇の玉突き衝突事故が発生してしまう。こうして、いっつもセクハラを考えていくと、面白いってスゲーな、正義だなという変な結論に至ってしまう訳です。あの感情は、ほかに色々とマズイことがあったとしても全部チャラにしてしまう。

 

文章の感じから、男性→女性へのセクハラを前提とした風になってしまいましたが、逆方向の場合もそこまで変わらずに同じようなことが言えると思います。セクハラそれ自体に関しては、恋愛感情のスイッチがあるくらいだから、セクハラは永遠になくなることはないだろうと思います。言っちゃった後にすぐフォローしたり、ということは出来る筈なので、そういう気遣いが出来るようになればいいなあ、という考え方です。要は旨い事扱いましょう、ってことなんですよね。