Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

【雑】自分なりの答えを。

ご訪問ありがとうございます。

 

 こんにちは。ぞ!です。

 今年に入ってから見た二つの映画のテーマがなんとなく共通してるなあ、と思ったので少しだけ書いてみようと思います。

 (ネタバレは決してしません!というか、映画のタイトルさえ出さないので、安心してください。)

 私はそこまで映画が好きで沢山見ている、という人間ではなく、多くても年に「片手で数えられるくらい」の本数で収まります。テレビ、DVDを含めても、です。そんな私ですが、縁あって今年は二本、映画館のスクリーンで見ることができています。全く別の映画であり実はこんな関係が・・・というものも全くないのですが、両作品にどこか共通したものを感じました。

 

 

f:id:m4usta13ng:20140324135811j:plain

(若いからこそ考えられることがあると思います。)

 

 それは、「既存の〈答え〉を疑い、自分なりの〈答え〉を、回り道ししてでも導き出す」こと、というメッセージでした。両映画とも、主人公の前には、そして観客である私たちの中にも、その業界、固有の世界に対する厳然たる常識が、冷たい顔をして存在しています。主人公は、訳あってその世界に別のところからやってきた「渡来人」であるから、その常識に対して純粋に疑問や、不満を顕にします。しかし、多くのものにとってはそれは不思議な感情、奇妙な感情、といった風に整理されてしまいます。そして、多くのものは、住み慣れた社会に対して共通の「常識」、さらに言えば「答え」を持っているのですから、彼らは、(主人公から見れば)恐ろしい程冷たくその現実を受け止め、目の前におこった出来事を仕分けしていきます。

 しかし、主人公はそんな常識を知りませんし、知ったところで彼は「渡来人」でありますから、その「正解」は本当に正しいのか?という、その世界にとっては新鮮かつ鋭すぎる疑問を発信します。そこで、物語でいう「転」の部分が始まっていくわけです。

 映画はおおむねハッピーなエンドを迎えるわけですが、主人公は、「渡来人」としてやってきた世界では、純粋に自分なりの答えを探すことができていましたが、元いた自分の世界では、多くの他人と同じように、大きな壁のように立ちふさがった教科書のような「常識」に対し、何ら疑いを持たず対面していたことに気付かされます、自分自身の行動によって、です。この問題に対して、彼はどのような答えを導き出すかは、また別のお話で・・・、ということになるのですが、私は、人生におけるかなり基本的なテーマを両映画に見出したわけであります。

 私たちは常識に対し、その理由を「常識だから、常識だ」という捉え方をしていないだろうか?ということです。そして、その壁に立ち向かえるように、若者は若くある、のかも知れません。

 

 

 

読んでくださりありがとうございます。