読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

【10秒】このブログを評価してください。


[広告]






【端】【雑】まとめサイトって「答え」ではないよね。


このエントリーをはてなブックマークに追加

f:id:m4usta13ng:20140508192516j:plain

ご訪問ありがとうございます。

 

少し時間が空いてしまいました。しばらく書いていなかったことに関して、その原因も、(好きでやっていることなので)謝罪も何もする必要はないのですが、まあ、久しぶりですね、ということだけです。

今回は、「まとめサイト」を切り口に、私たちの社会はすっかり、「答えをすぐ見ちゃう受験生」みたいになってしまったなあ、ということを喋っていこうと思います。例のごとく、だんだんと話のスケールが広がってしまうとは思うのですが、まあ。

 

○答え合わせは好きですか?

 

f:id:m4usta13ng:20140508192551j:plain

 

→今日も雑談です。突然ですが、みなさんが中学生、高校生であったとき、それ以外の時期にでも当てはまることではありますが、勉強をする際に「解答」をできるだけ見ない努力をしていましたか?という質問を投げかけます。私は、よく先生方から言われていたこととして、「分からないからといって、すぐに答えを見てはいけないよ」という言葉が頭のなかに今でも色濃く残っています。時には、学校からワークを配布される際に、別冊になっている解答だけ、先生に回収されてしまった、という経験もありました。私は塾や予備校に行かなかったため、そこで「浮いた」お金で大量に参考書を選別して仕入れ、学校から配布される教材よりもそれらを愛用していたため、そのような回収措置による影響をモロに受けなかった学生でありまして、このような先生の「政策」に意味があったのかどうか分析することはなかなか難しく感じていしまいます。

→そして、ここからが本題なのですが、私は現代は「答えがすぐそばにある社会」であると思うようになりました。ここでいう「答え」は、「真理」というものとは異なり、誰もが納得する正解、とはニュアンスが違ってくるのですが、例えば世論のように、意見は多少分かれているけれど、大体のひとはこの意見に同意しているよね、という「答え」は、簡単に見つけられるようになっているなあ、と感じています。

→私が身近に感じるところだけでしか例を挙げられないのですが、たとえば、某大型匿名掲示板(現在は分裂したりと、存在自体が問われていますが、システム自体は様々なメディアに受け継がれています)では、世界のニュースやスポーツチームの内部事情に対して、その匿名性からか辛辣な意見を代表に様々なコメントや提案が投稿されているのですが、世界でもっとも好き勝手にユーザーが喋っているのに、その意見や感情は一定の方向にまとまります。そのベクトルは、「まとめサイト」という拡散勢力、一種のキュレーターたちによって、「その他」を削ぎ落とした、より洗練された見やすい「答え」となって、ライトユーザーも解答をのぞくことが出来るようになっています。ニュースに関しては、大衆に向けたメディア、テレビやラジオ、新聞は、各ニュースに対する意見自体はもちろん持っていますが、その意見を大々的に押し出すことはしません、希望する感想をユーザーに持ってもらうように誘導することはしていると思いますが、はっきりと、「このニュースには○○という感想を持てばいいんですよ」という姿勢はとっていません。

まとめサイトは、ニュースの文章(報道機関のものを引っ張ってきたものです)、つまりは「ソース」と、それに対する匿名のコメントによって構成されています。この構成自体はテレビのワイドショーとあまり変わらないのかな、といったところですが、ニュースを扱うまとめサイトでは「コメント」のシェアがテレビに比べてとても多く、より「答え」というものの強制力が強くなっている、と考えることができます。まとめサイトを閲覧するユーザーのなかには、「ソース」は殆ど見ず、投稿の見出しと匿名の感想だけを見ている、というひともいるのではないでしょうか。これは、先ほど書きました勉強の例で言えば、問題文を見てすぐに別冊の解答書を広げ、その答えを自分のノートに写す、といった一連の行為に、このようなまとめサイトの利用法は酷似している、と思います。Twitterに関しても、「答え」ありきの考え方は色濃く現れているのではないでしょうか。リツイートという行動に、この感覚ははっきりと映し出されていると思います。なぜ、と問いたくなるかもしれませんが、このことに関しては、読みながら考えてほしいところでもあります。

→気づけば、この社会は簡単に「答え」が覗けるようになってしまったんだなあ、と感じています。ネット販売や旅行案内などのレビューだって、その内容を参考にして決めよう、と考えているのであれば、それは「答え」を見ながら考えている、というのと同じであると思います。テレビゲームだって、ネットで探せばすぐに答えは出てくるし、「攻略本」にすぐにたどりつけるようになって、提供する側のゲーム制作会社は、攻略サイト・攻略wikiありきで考えて、やり込み要素だったり、「2周目」といった要素を意図的に用意するようになりました。昔のゲームは、その楽しみ方を、ユーザーが自ら探求することで、コンテンツにおける二次的な価値が開発されていって、それがヘビーなユーザーになるほど価値を持っていったのですが、今はその構図は大きく変化してしまっているように感じます。

 

f:id:m4usta13ng:20140509005811j:plain

○失敗はしたくないけれど

→こうやって「答え」めいたものを頼りにするということには、やっぱり「失敗はしたくないなあ」という考えが残っているのだと思います。失敗しないためにも参考にしておこう、という感覚は、まったくおかしなものではないと思います。

でも、こういう考え方をしていると、「答え」を覗くことその行為自体に関して、それをすることは成功なのか失敗なのか、ということは考えなくなってしまうのです。受験生は、自分の勉強法を考えるときに、やっぱり解答を見ながらだと力はつかない、でも分かりそうもない難問を何時間もウンウン考えていても仕方ないよなあ、といった具合に、解答との付き合い方を自分なりに考えているのです。先生によっても、見ちゃえ見ちゃえ、って言う人がいたことを覚えています。つまり、解答をみる行動に関しての成否、っていうのを考えていたんです。だけど、もっと〈おとな〉になった人々はどうなのか、っていうと、これまでに書いたように、「答え」を見ること自体には何も注意を払っていないなあ、ということがわかってきます。見ているものが「答え」である、ということがそもそも分かっていない、ということもあるのですが、そういうことも含めて、「答え」を盲信してしまっている、ということが発覚してきます。《コタエ》なんていう、どこに行ったって見つからないものに関しても、です!

→一番わかりやすいので、ニュースに関して考えると、まず、その情報自体を見て、自分で「やだなー」「かわいそうだなー」「便利な世の中になって~」といった具合に、(できれば具体的であればあるほど良いと思うのですが)まずは感情や意見という自分の「答案」を作って見るだけでも、いざ「答え」を覗き込んだ際の感覚というものは、自分自身にとって密度の濃いものになると思います。ただ「答え」を見ているだけでは、結局時間を潰しただけになってしまうと思うのです。毎日を充実させるのは、やはり自分の習慣によるところが大きいはずです!

 

(久しぶりに書いたので、少し疲れてしまいました。それでは。)

f:id:m4usta13ng:20140509010031j:plain

読んでくださりありがとうございます。

 

 ※最後に、最近読んだ本を貼り付けておきます。やましい意味はありません・・・

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

 

 

 

 


【リンク】このブログを評価してください。