Yuigo・ん・・・湿っぽい

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「私たちは個性を委託して生きているのではないか?」【雑67】


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(報告)学生ファシリテーターします【雑66】 - 深夜ジェネレーション

 

 

今回はファシリテーションとは関係ない話をします。

 

 

 

1.私たちは個性を委託して生きているのではないか?

 

学の方で、「政治哲学演習」という少人数授業に出ています。少人数授業はノートやマインドマップをとる練習に最適なのでできるだけ真剣に聞くことにしています。まあ、議論型の講義で、参加者がテーマをバラバラに見たり、議論の枠組みが統一されていなかったり、各々が言いたいことを言い合っている展開なので、私としてはファシりたくて仕方ないムズムズが止まらなくて参るのですが、こういった議論を聞くことでブログのネタを思いつくことが多いので、(言ってしまえば)「雑談」みたいなゼミもそれはそれで役立ちます。

 

 

J.S.ミルの「自由論」をテーマにして、「個性ってなんだ?」という話になっていました。今週の授業のことです。平たく言うとこんな感じのテーマ。↓

 

「個性、個性と日本の教育は言っているけど、全員が全員個性を大切にしていっことって本当にできるの?」

 

このような問いがあったのですが、私の考えでは、無理だと思います。

 

現実を見て、自らの個性を前面に押し出して生きているひとがどれくらいいるのか、ということを見ても、個性を表現できている人は人類の過半数に遠く及ばない(主観です)という現状がある。そもそも、みんながみんな個性を出したら社会がうまく機能するのか、という懸念もあったりして、個性個性と唱えることって実は危険なんじゃないか?とも考えることができる。

 

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そりゃあ差別をしてはならない、と思いますが、「みんなちがってみんないい」って本当なの?と子供ながらに感じていました。組織は統一されているから動かしやすいわけで、朝礼のときに整列をさせている一方で、図画工作では創造性を問う学校が、よくわからないまま生きていました。小学校は同じ先生がそれぞれの授業を担当するので、尚更混乱していた記憶があります。そして、それは今も同じだったりします。

 

もし、個性の定義を考え直すことができれば、社交的で自分を殺してでも他人を尊重したり組織のことを優先できることも個性、つまり「人に尽くせること」も個性、と言い直すことができれば、そういう意味では個性を押し出すことは悪いことには聞こえません。

 

ただ、教育はこのような意味で「個性」を宣伝しているか、というと、そんなことはないので、やっぱり無茶なことを言っています。

 

「自分らしさ」ってたくさん言われた覚えがある。なぜか、チャレンジの小学講座にも「自分らしさ」って書いてあって、子供ながらに「お前は勉強を教えろや」と思ったという記憶が残っているほど。

 

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「自分らしさ」ということを宣伝するなら、しっかり自分らしさを出しても問題ないような社会、自分らしさが許される社会を整備する必要があるけど、どう考えても学校で言われることとニュースが伝えることとは食い違いがあって、個性なんてあるだけ苦しいじゃないか、と思う子供がいてもなにも可笑しいことではないのです。

 

そんな訳で、個性を出すことを多くの人は諦めているわけですが、それでも自分の個性がそうやって殺せるか、というとそうでもなかったりして、言い換えれば欲求は止まらないのです。個性を出したくして仕方ない瞬間に襲われながら生きている。ワナビー願望みたいに定義付けされているものもありますが、つまんない人間になったけど本当は……なんて願望は完全に消せる訳がない。「さんま&珠緒のあんたの夢かなえたろか」っていう番組は面白いのですが、これだって、普通に暮らしている素人が夢や願望を叶える、というシンプルな構成であって、これは視聴者の願望が(そのままの形ではないけれど)代理して叶えられている、という流れが人気の秘密になっています。

 

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で、こんなことがあるよなあ、と考えた末に、ああそうか、私たちは個性を委託して生きているのか、という表題にたどり着きます。

 

最近は「共感」という言葉が大はやりなのですが、これは「個性の委託」とも取れるのではないか。自分に願望はあるけれども、なかなか達成なんて簡単にはいかない……そんな状況の中、主にエンターテイメント、音楽や芝居、物語、アニメやゲームといった(かつての)サブカルチャーにも頼って、自分の中にあった叶えられないモヤモヤした願望に近しい作品に傾倒することで、願いが叶えられた、という擬似体験をしているのではないか、ということを考えたのです。で、この長ったらしい説明は「共感」≒「個性の委託」という二文字で容易に要約することができます。

 

だから、もっと細かいところで言うと、SNSで著名なキュレーターをフォローすることも、知らないひとのTweetをリツイート(引用)することも、ニコニコ動画でゲーム実況を見ることも、願望、つまりは個性の「委託」であるのではないか、ということに行き着きます。「そうそう、これが見たかったんだよ!」「これを言いたかったんだ!」という感情はまさにこの現象を表しているのではないでしょうか?

 

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雪歩Pにとって、アニマス3話ではまさに「個性の委託」「願望の擬似達成」が繰り広げられたのではないでしょうか。萩原雪歩765プロのアイドル13人(12人?)のうち最も普通の女の子、(世間一般で言う)アイドルという理想像からは最も遠くにあるような人間ですが、個性豊かな仲間たちではなく、その雪歩がステージの中心に立ち、輝く、という構成は、勿論サクセスストーリーの典型であって昔からあったパターンですが、見方を変えれば、今、Youtubeニコニコ動画を初めとしたコミュニティにおいて起こっている「一般人のタレント化」という現象を想起させてもおかしくはありません。

 


The iDOLM@STER: Yukiho's 1st performance ...

 

 

 

自分の中にあった曖昧な感情をもつひと、または、やりたいんだけど出来ないという状況下に置かれたひとは、このようにして個性を委託しているのではないでしょうか。

 

深夜ラジオを聞いていると、芸人が「ほら、芸能人って変なひとばっかりだから」ということを口にするのを聞きます。芸能人になるようなひとなんて、普通の社会じゃやっていけるわけない、とかそんなことです。私たちの個性を代弁してくれるひとたちは、こんなことを考えているのか、と思うと、個性の委託ということがなんとなく明確になるような、そうでもないような。

 

それで、最初の「個性は必要なのか?」っていう議論に戻れば、このような「個性の委託」がうまくいっていて、自分が行っているわけではないけれど願望つまり個性が擬似的に達成されている状況であれば、それ以上個性を求める必要はないのではないか、と考えます。個人の気持ちを代弁してくれるモノがあれば、自分がなにか行動する必要はなく、その作品だの意見だのに賛同することで代用できるのです。

 

 

 

かなり変なことを言っていると思うので、コメントや批判があればぜひぜひ教えて欲しいです。よろしくお願いします。

 

 

 

 

読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

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