訪問ありがとうございます。
別にいうことでもないですが、さっきまで書いていた記事が消えたのでやる気をなくしました。最近はサムネイル作ったり画像編集したりHTMLを見よう見まねでやってみたりちゃんとしてた感があってなんとなく疲れていたので、なにも編集しないで書こうと思います。たまには。
一人称ってあるじゃないですか。
自分のことをなんて呼ぶか?ってのが一人称なんですよね。「俺」とか「僕」とか。意識高い男子大学生ってやたら「ボク」って書きますよね。この視点にはなんか自信有ります。
ちなみに、一人称=自分の呼び名ってことが、意外と伝わってなかったりして、英語の授業で中学生は”I”は一人称、”He”は三人称、って覚えているのに、「君の一人称は何?」って聞いたりすると「?」って顔をされました。え、そっち知らないで語尾に”s”付けるか付けないか考えてたの?と考えるとかわいそうですね。
それで、自分は一人称に対して迷いがあるんです、という話をします。
わたしは一人称をたくさん使い分けちゃってて頭が変になってます。どれが本物か、ホームとか、そういうのがないので、使ってて安心する一人称がなくって、それが話しているときとかに余計な心配になってしまうのです。
例えばこんな感じにばらばらです。
①ブログ、SNS(ZO!名義のとき)→「私」……最近は「わたし」になりつつある
②普段、リアルにおいて知人友人と話すとき→「俺」ときに「僕(LINEや携帯メールだとこっち寄り)」
③作詞のとき→「僕」
④ゼミとか授業で発言する際→「自分」
……なんだか定まらないなあ、という不確かな感覚があって、それで悩んでいます。しかし、どれか一つに決めてしまうのも、それ以外の自分自身に蓋をするようで切なかったりする。何を言いたいんだ、と思われますが、そのままです。
特に、ネットに文章を残すときはやたらと気を使ってしまうことが多く、どうして「僕」や「俺」を使いたくないかというと、自分を男性として見てもらいたっくないな、という感覚のせいだと思います。別に自分は特別な性である、ということはないし、至ってマジョリティだと思います。多分そうです。
しかし、自分が書いたものを「男性が書いたもの」と思って欲しいかと言うとその真逆であって、顔が見えないネット上では、顔がないままその人を認識することはあまりしない。昔から、アバターだったりアイコンだったりと自身の「分身」があったから、相手の素顔が見えない状況で、ひとはとりあえず相手の顔を想像して接している、ということは容易にわかってくれるでしょう。その想像をどうやってするかと言えば、先ほど書いた視覚的な分身もそうですが、2chやニコニコにはその視覚情報さえもないから、その文面で判断するしかない、ということになっていきます。その時に、一人称というのがかなり大きな情報になってくるな、ということは、わたしも昔から接してきて感覚的に覚えてきました。
そして、わたしの文章において「男性が書きました」というのはかなり余計で、邪魔な情報だなあ、ということは自負しているので、なるべく中性的な一人称を選んでいるというわけです。
そして、リアルな場所ではその必要があんまりない、つまり、一人称を変えるという小細工をしなくても素顔が目の前にドーンと出てくるので、誰がしゃべっているのか、誰と接しているのかということがはっきりわかってしまうのです。だから、わたし、と不自然に言うよりは、姿と一人称のズレがなく、ナチュラルである「俺」「僕」に落ち着くわけです。多分そうです。
ただ、無意識のうちにこういう使い分けをしていたから、この理由も後付になってしまうかもしれない。変な気分になってきた。こういうことを気にしないならそれでいいのですが、そういうわけにも行かない性格だからこうして複雑化を推し進めてしまう。
とにかく、ネット上では自分を男性、女性、その枠に限らないろいろありますが、性別という情報はつけないままやっていきたいな、と思っています。世の中の性差別があまりにも苦しいからです。
人一倍セクハラとかにも敏感で、されている本人が笑ってうまくかわしていても、本人以上にダメージを受けてしまうことが有ります。もしかしたら本人はダメージを隠しているだけなのかもしれませんが。居酒屋で、アルコールを含んだ時のそういう雰囲気に耐えられなくなってトイレに駆け込んだことが何度もあります。友人周りには酒が弱いということで理由付けにはなっていると思いますが、なんか過敏になってしまう。わたしは何の被害も受けていないのに。大学生が嫌だ、という理由のひとつですね。
だから、アルコールやそれが出てくる場所は好きになれない。それに頼ったこともありあすが、二度としたくない。
飲み会が終わって家にもって帰ってきちゃった使いようのない酒を、風呂場にいって、裸になって、頭から浴びたときは楽しかった。こんなもの口に入れる価値はないんだ、そしてこんなものに呑まれているわたしはもっと価値がないから、酒にまみれてやるんだ、って笑ってた。
生きることに適していない性格なんだ、ということは自覚しています。余計に疲れてしまって、余計に怒ってしまって。そんなときに「自分は損な性格だなあ」と思いかけて、そういう考えをした自分をビンタしたことがあります。正確に損得があるなんてわかったら、簡単に考えてこの世の半分の人間は生きることが嫌になってしまうから。そんな考えは捨てなければいけない。
「もっとポジティブにモノを考えようよ」って、ポジティブになることを正義としていますからね。暴力ですよ。思想統制ですよ。どうしても出てきちゃう、仕方なくでてきちゃうネガティブな感情を利用しよう、っていう方向性を完全に無視していますからね。前向きにことを考えられなくても、ネガティブをひっくり返して開き直る、って感覚を持った方が楽。何言ってるか分からない。
少なくとも人間には向いてないけどね。