Yuigo・ん・・・湿っぽい

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【雑】インターネット動物園ニコニコ生放送で1年間を無駄にした事実と自分語り


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訪問ありがとうございます。

 

初めての1年、だいたい1年間をニコニコ生放送と少しだけ動画の出し手として使ったわけなんだが、本当に時間の無駄だったと思う。それほど楽しくなかったし、楽しくするための努力をしたわけでもない。最近そういうのがはっきりしてきてどんどん鬱屈した気持ちになってきたので、そろそろブログに落とし込んでほかの場所であんまり言わないようにしないといけないと思った。落ち着かせよう。

 

ニコニコ生放送で自分が放送したり、知り合いの放送を視ることに関して面白いと思っていたのか、そうでないのか。自分の感覚としては、これに関しては当初からずっと後者だった。

 

面白いと思いたいなら、この世界にはありとあらゆる形態のエンターテインメントが用意されている。飽きるくらいに存在し、その一つのジャンルであっても、摂取しきるのはかなりの難関と考えられる。たとえあるジャンルに精通しているという人間でも、彼が見ているのは氷山の一角ということはよくある。それほどまでに娯楽というのは広く、際限なく続いている世界である。

 

そのなかで、ニコニコ生放送という、言い換えれば一般人の配信を選ぶ理由は、まずない。笑いたいならもっと手っ取り早く笑えるものが、泣きたいならもっと的確に涙腺を刺激しているものが存在する。ニコニコ生放送の内実は何も面白くないが、その珍しさと手軽さ、不透明さが私を惑わしたのだと思う。騙されたといったほうが正解かもしれない。勝手にぬかるみに足を突っ込んで勝手に騙されたのが他でもない私自身だけど。

 

趣味としても周りに言えたものではないと思う。健全、不健全というある趣味に対する評価というのは残念ながら存在しているし、人それぞれだから、個性だからという綺麗な言いわけでその現実を躱すのは難しいことだ。そういう点でも劣っている。利点を語るとすれば、超ニッチな需要を果たすためには最適な媒体であると思うが、数ある放送から超ニッチな需要を果たす配信を探し当てるのは、その前にその配信が終わってしまうだろうからこれも現実的とは言えない。

 

じゃあなぜ私が配信をしたのかというと、あまりにも一人だったからだと思う。恥ずかしい話だが孤独に耐えることができなかったのだ。

 

ブログには隠すことなく書いてあることだが、私は数年前に鬱にかかり、よくわからないまま鬱が治ったといわれた。実際、鬱になったときもフワフワしていたし(ネガティブが加速していることは把握していたくらい)、自分がどのような状況に置かれていて何をしたいのか、何を考えているのかがどんどんわかりづらくなっていった、という程度だ。自分がピンチに立たされているということをあまり自覚していなかった。

 

で、半年くらいして治ったといわれるんだけど、もともと病気になっていたことからまずよくわかっていなかったため、治ったってなんなんだよ、という疑問が渦巻くことになった。結果、自分のなかではそういった疑問は治らなかったし、今でも解消していない。鬱になるずっと前に関しては、まあ、なかったかな、ということがわかる、という感じだ。あいまいな感情という薄い空気に包まれていく。半年の間に思考力が大きく落ちて、それを元に戻すために努力をした、というくらいだった。今でも自分はなにかうっすらとした病気にかかっているのではないか、という疑問を持っている。むしろ自分に課せられているハンディキャップの正体を明確にしたいがために、いろいろとカウンセリングや診断をしてもらうが、よくわからないまま続いている。

 

もしこれが病気でもなんでもなく、性格だったとしたら。

 

そいういう想像を少しするだけで、目の前がだんだんと変な色になってくることが今でもある。

 

しかし自分は絶望に立っているわけではないのだ、ということを必死で言い聞かせる。自分はおかしくはない、まだ生きることができる、ということ。そういう精神の平衡を保つために、はじめはそんな意識を持っていなかったニコニコ生放送を視ているということに、最近気づいた。

 

暴言とか悪口を言いたいとかそういうのではなくて、自分が主観的に視ていることとして、ニコニコ生放送にはダメな人がいっぱいいる。そして、ダメな人がなんとか生きようとしていて、ダメな人が混沌の中をいったりきたりしている。ダメな人はなんとか日常を忘れようとしている。ダメな人はダメな人同士で傷をなめあっている。そして、そこに自分ももちろん含まれている。

 

醜いことだとは承知しているが、私は自分より「下」にある人を見ることで安心する。まだ自分は終わっているわけではないのだと、こんな人でも生命機関を維持しているのだから、自分にでも生きるということはまだなんとかなるのだということ。そして、忘れてはいけないのが、自分もそういう風に視られているということ。自分も、コイツが生きているからまだ大丈夫だ、という風に誰かに思われながら生活しているということだ。これはもちろん口にでることがないが、そうやって関係性を回していくのだと思う。

 

ある時からそういったこときに気づいた。そして、こういう視聴スタイルを続けていればいつか自分は本当にダメになってしまう、ということを悟った。もっと早く気付くべきだった。それから他人の放送を視ることは大幅に減った。視たとしても、途中から耐えられなくなるようになった。背景の現実がよく見えるようになって、ああ、こうして生命を削っていくのか、という事実に気づいてしまった、そんな感覚がどうしても襲うようになった。自分の内側からじわじわと痛みが広がり、嘔吐に似た感覚がせりあがってくるのがはっきりとわかるようになった。これは誇張なんかじゃない。

 

こんな風にニコニコ生放送を視てい人はそうそういないと思う。たまにはそういう感情に陥っても、いつもいつもこうなるという人はいないと思う。私はこうなってしまった。そして自分が放送をしてもだんだんと内側が静かに震えだすことが分かってきた。

 

コミュニケーションを主に、多くの人はニコニコ生放送に接しているのだと推測できる。周りを見たり全体を抽象的に分析するとそういう結論に至る。テレビをはじめとした大きなメディアでは取り上げられない世界の話題ができるから、そういうつながりを見つけるためのツールとして、生放送は働いているのだと思う。だからちょっとニッチな世界を知ってしまった人々は集まってくるし、交友関係が出来てくる。

 

例えばゲームに関して、大人になってゲームのつながりを作るというのはかなり難しいことだから、こういった場所が成立しているのだ。

 

そして、私が気づいてしまったこととして、ゲームがそんなに好きではなかった。周りの熱に引いてしまうし、言ってしまえばゲームをあまりしていなかった時期のほうが、人生として成功していた。学生時代とかも、ゲームばっかりしていた時期は良いことが少なくなっていたことに、最近振り返って気づいてしまった。反比例である。

 

数少ないコミュニケーションに関しても、実社会での関係よりもエネルギーを浪費することが激しかった。メッセージ伝達の手段が少ないことが主な原因だが、そのせいで他人がどんどん面倒くさく見えてくるのである。それは相手からしても同じことなのだが、だんだんと繊細に交渉することに嫌気がさしてきた。

 

そのほかのメディア、ニコニコが専門分野としてる趣味ジャンルに関しても、好きではない、興味がない、むしろ嫌いというのがほとんどだった。結果的に、自分は自分で自分に合わないコミュニティで過ごしてしまっていたのである。

 

1年間かけてこのような事実に行き着いたのである。ふざけた話だ。人生はクソゲーだ。

 

 

m4usta13ng.hatenablog.com

 

 

読んでくださりありがとうございました。


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