Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

【10秒】このブログを評価してください。


[広告]






【雑】閏年の日記


このエントリーをはてなブックマークに追加

 

断っておくと、閏年ということに意味はない。

 

2月がもう一日だけあるということに、喜んでいる人間は多いのか、少ないのか。私は月が替わるということに対して寂しさというか、うわ、もう○月終わっちゃったのかよ、まだ全然ものを成し遂げてねえよ、と思う人間なので、時が進むこと自体あまりいい気分にはなれない。それだけ、日々の時間を浪費しているということにもなってしまい、自分に対しての嫌悪感が増幅するだけだ。人間がもっと馬鹿で、時間という共通概念を持っていなければ、もしかしたら個人がそれぞれの時間を持っていたのかもしれない。起きた時間をそれぞれの朝とし、寝る時間を夜とする。そうすると、彼女にとっては月が照らすこの闇夜を朝と言うのかもしれない。不便極まりないが、1週間くらいはそういう世界に生きてみてもいいかもしれない。どうやって待ち合わせをするのだろう、どうやって世界記録を測るのだろうか。1週間で事が済んでしまうなら、恐怖よりも単純な興味が誘うのである。

 

固定概念というやつは、やはり総合的に見れば厄介で苦しい存在だと思う。キングコング西野亮廣は、世間一般で見ればはねるのトびらの栄光を引きずる、下降線のただなかにあるコメディアンかもしれないが、様々なプロジェクトを完成させている一人の立派な、参考にするべき点のあるクリエイターでありアーティストである。ローカル番組であるガリゲルにて、西野はその異端性をライセンス井本から咎められるのだが、彼は「お笑いとしてどうなん」という切り口でのみ、西野を批判、もとい「いじる」ことしか出来なかった。それは、お笑い芸人は観客を笑わせることが第一使命であり唯一の役割である、という彼の固定概念に基づいていた。西野がもはや職業や所属事務所にとらわれない生き方を完成に近づけている作業に、はっきり言って的外れなコメントをしてしまったということは、常に新しい時代を探るメディアを通じて活動している人間としてはとても残念な有様をさらす結果になってしまったのである。お笑いなんだから人を笑わせろ、というのはあまり納得いかない理論である。人を感動させてもいいし、怒らせたって、最終的に意図した仕事をすることができればそれは成功と言っていいのではないだろうか。そもそも、お笑い芸人という職業名にもなかなかの問題性があるかもしれない。Youtuberという名前のほうがまだその職を明確に表しているのかもしれない。現に、芸能タレントとお笑い芸人という名前に差は感じられない。芸能タレントが「サッカー選手」という職業名全体だとしたら、お笑い芸人は「フォワード」といったところだろうか。プロになって若手のことはフォワードでも、ベテランになるとディフェンダーになる選手というのはサッカー界にあふれるほどいる。試合中にキーパーがけがをしたら、場合によってはフィールドの誰かが、キーパーグローブに違和感を感じながら代役を買って出ないといけないこともある。

その批判が、かえって自分の固定概念をさらしだすことになる危険性を秘めている。これは、日常のなかでも度々ニアミスする危機である。気をつけなければならない。

 

最近Twitterのほうである程度攻撃的な発言をするように心がけている。というか正直な発言といったほうがいいだろうか。自分がいい子いい子していた時期にしていたコミュニケーションが、客観的に考えるとあまり楽しいものでなかった、表面上のみでなんというか価値がない、ただ各人が隙間を埋めあうようなつまらないものに終わっていたということが反省としてある。いや、別に人間同士の係りあいってそういうものではないか、という返答は自分からも発せられるが、そういうのは実社会で済んでいるし腹いっぱいなのであり、一つ一つのメッセージ交換に意味を持っておきたい、というのはインターネットであったりSNSである。勿論この願いが叶うことはない。100%はどうやったって不可能である。それを目指すという気概に重要性があるのである。

ここで注意しておきたいのが、曖昧なメッセージはインターネットでは伝わらないということである。五感のうちどのシチュエーションにおいてもその半分以上が制限される環境下においては、実社会においては伝わってくれる「それとなく」という方法がうまくいかない、というのが大半なのだ。たいてい、こいつ何言ってんだ?とか、よくわかんないけど怒ってるな、気持ち悪いな、あまり近づかないでおこう、という結果を生むことになる。空中リプなんてものはその極端な例であり、何を言いたいのか誰に言いたいのか分からなくて気持ち悪いし、何を言いたいのか誰にどんな気持ちをもっているのか、ということが分かったとしても、やっぱり気持ち悪いのである。だからあまり使いたくない。物事は実社会以上にはっきり言う必要がある。自分がそれを相手に正しく伝えたいのであればだが。自分がそれを発すれば終わる、という自己中心的で傲慢で傍若無人な考え方に基づいているのならば、例えば空中リプは自己正当化される。

あと、個人的には特定の人物からばかりLikeをもらうような状況は危機であると感じている。自然とその人からLikeをもらうことが目的として倒錯してしまう場合があるからだ。あと見てくれも悪い。自分が一番嫌いな「内輪」を作っていることになるからだ。結果として、こういうことを考えたくないので、私はLikeの通知が一切こないように設定した。自分の「生」を優先しているというポーズだ。

こういう意識づけをしてから、けっこうブロックされたりフォローを外されることになった。両名にとってこういう流れは良いことだと思う。無理をするなんてインターネットに接していることの本末転倒といえるからだ。私が玩具として扱っているアカウントは、鍵をかけられなければ見る方法はあるので、これからも分解したり飯事の道具として遊んでみようと思っている。

 

本当に閏年に関係ない話になってしまった。1日だけ出来た無駄とも言っていいかもしれないこんな特別な日。ある人は過ぎ去りし日々を取り戻すために使うのか、ある人は無理やり理論を捻じ曲げて2月29日を休暇のような日ととるのか、エイプリルフールよりも嘘みたいなカレンダーの隙間に、誰が何を思うのか。かく言う私は何も思わない。


【リンク】このブログを評価してください。