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Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

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ネットの会話もといケンカに欠けている大切な視点を見直そう


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こんにちは。

 

ネットのケンカ、炎上、クレーム、運動に関する言いたいこと考えたいことが山のようにあるので、最近はそういう関連の記事しか書いてないのですが許してください。ある程度重複している内容であっても、繰り返し言うことで分かることもあるので、そこはやっぱりもったり自由にやっていきます。

 

今日もその、ネットで炎上をしたり、問題に関して意見が真っ二つになったりして、その分断された意見それぞれにも、その部分は正しいけれど、その部分は大間違いだよ!という風に、2次的、3次的な炎上めいたものが発生し、周りからすればそれがすべて炎上のもとになった人間が悪い風に見えてしまう、という不運で誰が悪いか分からないから怒りのやり場がない、といった泣き寝入り状態に陥ってしまうこともしばしばです。炎上の火を盛り上げた迷惑な群衆は、責任感を全く感じていないということも悲しいところ、誤った正義感の旗を手に、見えない人間同士、どこか不可思議な結束間を持って、我々が実質的な社会の警察であるといわんばかりに次の火種を探していくのです。

炎上を作り出す人間たちの悪い部分は、過去など振り返らないところです。あの件は炎上させて良かったのか?悪かったのか?そんなことは一切考えません。高く燃え上がる火柱を見て盛り上がれればそれでいいのです。盛り上がればいいというのは、いわば「炎上クリエイター」たちが日ごろ憎んでいるような、ワールドカップに乗っかって渋谷で大騒ぎするようなチャラついた若者たちと、やっていることはあんまり変わらないのです。皮肉なものです。そして両者とも、やはり過去を振り返りません。振り返ったとしても、昔食った駄菓子が高級とは言えないけれど思い出に残るおいしい味だったね、みたいな「美化」をするのです。不良が昔の行為を、あんな悪いことしたなーと反社会的であるのにも関わらず武勇伝のように美化するのと、おんなじメカニズムなのではないかと思います。だから私は炎上を生み出し、盛り上げようとする人間が嫌いです。本当に正しいのか分からない不安定な正義感を振りかざす慎重さ、冷静さを欠く行為、そしてなにより、自分の時間を無駄にしているだけのように見えるからです。

 

まず、炎上があってほしくない行為であるという自分の立場を述べた上で、このような炎上やそれに近いケンカ、論争などに関する大きな問題があるということを述べたいと思います。

それは、「いずれか1つが正解である」というこびりついてしまった固定概念です。

あるヴァイオリニストが自らの息子の携帯ゲーム機をバッキバキに折り、ヴァイオリンの練習をしなかったからしつけとしてやった、という言葉を添えたツイートが大論争を巻き起こした問題があります。

この問題に関しては、最初から「別に子育ての一環なのだからいいじゃない、口をはさむこともないじゃない」という意見と、「これは虐待、またはそれに近い行為だ」という意見に分かれ、まるで、この問題に対する答えはこれらの2択である、という凝り固まった考え方が、ネット上でいつの間にか作られてしまっていました。

本当は、もちろんそんなことはありません。いろんな意見があって当然だと思います。ましてや、この問題は教育論がかかわるものであり、現代を生きる人間は、ネットに文字を投稿できるような人なら誰でも教育に関して何かしらの哲学を持っているのです。それは、誰もが保護者に言われたこと、されたこと、学校でされたこと、言われたこと、クラスメイトとの思い出、学校の外で受けた特殊な形での教育(高校でバイトをしていた、なんて人はこういうところの経験が強いと思います)、ほかにも、様々なところで何かしらの教育を受けており、そのたびに、その教育が糧になった、それとも嫌な思い出になった、とかいろんな感想が生まれると思います。現在進行形で教育を受けている子供であっても、どんな教育が良いのだろうか?という問いに対しては、その質はともかく何かしらの答えを書くことが出来るはずです。だから、現代人は誰しも個人個人の経験に基づき、オリジナルの教育論を持っているのです。だからこの事例はある一家の一風景に過ぎないにも関わらず、とってもとっても盛り上がったんですね。

ここで私が言いたいのは、まず、この事例に関して出せる答えを2つに分けようとしてはいけないということです。暴言を吐いて迷惑をかけようという目的を持っている悪質なユーザーを除いて、この事例について言及をしようとしたユーザーは、みなとても慎重であったと思います。「別に他人の家庭のことだからあれなんですけど・・・」とか、「さすがに折っちゃいけないとおもうけど・・・」とか言った風に、なにかしら前置きをして、自分自身の立場をできるだけ表そうとしていました。こういう人は炎上をさせたくはなかったけど、なにせ国民誰でも話せる教育論ですから、何かどうしても言いたいことがあったのだと思います。その気持ちはすごくわかる。

ですから、これは特に有名人や芸能人に対してよく使われている分類法ですが、こいつは擁護派だ!とか、こいつは否定派だ!という安易な分断、ともすればレッテル貼りにつながるような分け方は、よほどのことがなければ絶対にしてはいけないと思います。人間というのはそんなに単純なものではありません。ここは良いと思うけど、ここはダメだと思う、そういう微妙な意見の表し方こそが、難しい問題、事例に対しては多く生まれます。それを「こいつは擁護派だから攻撃しよう!」とかいう考え方を使ってしまうのだったら、すぐにでも反省するべきです。

 

もう一つ私が言いたい問題点は、この手の事例に対して、常にどっちが正しいのか探そうとしているということです。はっきり言って、どっちが正しいとかはありません。滅茶苦茶なことを言っていなければ、どんな意見もある程度は正しい、ということでいいと思います。

ここで、久しぶりに議論や話し合いの舵取りとして使われるファシリテーションにおける、基本的な考え方を思い出してみます。ファシリテーションがなんだかよくわからないという人は、軽ーくググってみれば、日常でもよく行われていることだと分かると思います。

ファシリテーションを勉強し始めるとすぐに言われることが、議論において間違った意見は存在しない、という考え方です。もちろん、厳密に考えていったりすれば間違いが一つもない、ということはないのですが、そういう思考をしましょう、ということです。つまり、どんな意見であっても吸収するべきポイント、要素があるということを噛み締め、結果に最終的な意見とは反対方向であっても、その意見、その意見の一部分を取り入れていこう、ということです。

ネットの論争における最も汚らしい点は、自分の意見とは異なるものを排除するという姿勢です。対極にあるものは自分にとって悪である、有害であるという固定概念をぶち上げて、一切取り入れようとしないという強硬でありそして同時にきわめて臆病である、ということに気付いてほしいですね。

 

言ってしまえば、炎上で参っている人の気持ちになれば、炎上に関して特に関係ない人は、言いたいことがあっても何も言わない、投稿しない、RTしない、というのが一番良い反応なのではと最近は考えています。いくらその意見が良いものだという自信があっても、炎上の当事者にしてみたら沢山ある「火の粉」のひとつにしか見えないと思うんです。いくらいいこと言ってると自画自賛したところでその中身が届くことはまあありえない。だったら何も反応せず、速やかな収束をほんのり願って飼ってるペットの写真でもアップした方が平和に貢献できるはず。飼ってなかったらテキトーに画像検索で拾って来い!


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