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Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

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日記20160617


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こんにちは。自分のことを書くので何言っているか分からないと思います。

 

 

 

自分の気持ちが落ち着き、それなりに落ち込んだり激高したりと波を立てずに物事を考えることが出来るようになったのは本当に最近のことだと思う。

 

深夜ラジオを聴いていると、決して面白い瞬間だけではないという当たり前のことに遭遇する。制作側が四苦八苦している様子が伝わってしまったり、なんとも歯がゆい気持ちになったりする。また、別の部分では、自分と波長、波長に関しては前の前の記事でパッと書いてみました・・・多数決的にこれは面白いことが繰り広げられているんだろうけど、自分と波長が合わないという時間帯に遭遇することも、決して少なくはないということを味わう。

 

例えば、基本的に下ネタは好きなんだけど、下ネタにも色々種類があって、軽々しく男女の性が扱われるようなトークは未だに息苦しくなってしまう。自分が性的に未成熟であることもあるのだろうけど、何よりも直感がこれを嫌っていることが分かる。

 

以前はこういう歯がゆさに対して、過剰につらくなったり、過剰に怒りがこみあげてきたのだけれど、最近は仕方ないよな、と諦めがつくようになった。実際、コンテンツに対していちいちエネルギーを消費しても仕方ないので、これでいいのだと思う。自分の心が落ち着いてきた証なんだろうか、とも想像している。

 

今となっては自分が本当に精神的な、ちょっとした病気だったのかも分からない。医者からそう言われた、ということは、果たして事実だったのかどうかも、よくよく考えれば不確かなところである。実際には病気ではないのに、病気の認定を受けることによって自ら負の循環に飛び込んでしまう、というケースも少なくない、と世間話で耳にした。そのとき、自分は他人事のフリをしていたんだけども。

 

そういうことを聞いてしまうと、もし、自分が病気だと自分で認めることを嫌い、病院ではなく親しい人間(がその時存在したことにして)が自分の感情を修正してくれるような恵まれた出来事があったなら、自分は今頃どうなっていただろうとか考えてしまった。本当に後悔した。考えたって今現在の環境はどうにもならない。焼野原という言葉がぴったり似あうような、今の自分の環境は変わることがない。

 

病気の真偽は別として、自分が病的だったことは、事実ではないかもしれないが、真実と言っていいのだと思う。どのみち、どう転んでも疲れてしまっていたのだ。様々な場所を訪問し、この大学生の集団と同じようなパフォーマンスを繰り返していれば、自分が何になりたいのか分からないけど、とりあえず不満にならない幸せは獲得出来るはずだ、と馬鹿みたいな鼻水を垂らして追いすがっていた私は、いつの間にか走ることを辞めて、いつの間にか歩くこともままならなくなっていった。

 

原因は複合的なものだ、ということしか分からない。思い当たる節は幾つかあるんだけれども、そのいずれもが直接的な原因となりうるインパクトを兼ね備えてはいなかった。しかし、真実として私は可笑しくなってしまった。動けなくなってしまった。

 

原因ではないけれど、引き金を引いたのは成人式かもしれない。自分の中から出身地に対する帰属意識というのが完全に消えてしまった。昔いた学校に対しても何の意味も理由もなくなってしまったし、自分が子供のころ何をしていたのか、何を考えていたのかということが、繋がらなくなってしまったという悲しい感覚が、あの日内側でずっと張りつめていた。

 

そして、一度大丈夫になったと無理やりに言い聞かせても、結局、いつの間にか陥っていた、周りの人々の人相がはっきりと確認できないという悩みがさらに浮き彫りになっていくだけだった。他人の表情を見ることが恐ろしく難問に思えていた。少したってから、人とのかかわりに対して強い後悔を覚えることがなんどもあった。重要な関係をぶっ壊し続けていたことに、何か月も経った後に気づいていた。

 

思えばもう少しで、自分が何の具体性もなく漠然と描いていた輝かしい未来、自覚していたそれほどでもないけど確かな貧しさを忘れることが出来たり、家族に対して自分が分かり易い貢献を果たすことが出来たり、ごくごく一般的でそれに加えて自分なりの強欲な幸せを掴むことが出来ていたかもしれないと思うと、この数年間は、私が階段を転げ落ちて、ついでに松明を失ったこの数年間は、本当に可笑しいし、しかし、心のどこかでは、いつか出会ってしまうような出来事だったのかもしれないとか思っていて、無理やりに納得しようとしている自分に対して再度腹立たしくなってくる。自分が嫌いだ。主観的に長い人生において、この感覚だけは一貫してきたような気がする。自分が嫌いだ。

 

多分、大学に入って少したち、順調になれるだろうと僅かな手ごたえを得始めた過去の私が今の私を見たら、それはそれは怒るのだろう。しかし、私のことだから声をかけたりぶん殴ることはできない。・・・もしかしたら、今の私が背中を向けて帰ろうとすることころを、殺意を持って何かをするかもしれない。私は過去を裏切った、という後悔は日に日に増していく。後悔の矛先が定かじゃないから、ますますモヤモヤモヤモヤしている。

 

順調そうな誰々だって、誰もがそれなりに苦労を味わっていることは、特に考えないでも分かることだ。それなりの障害に対して、クリアするということを繰り返してきたから、表面上は笑顔でいられるのだと思う。どうして生きているのか分からなくなってきたという私の悩みと、同じようなことを他人も抱えているのかもしれない。所詮、私の悩みは安易で幼稚でしょうもないものなんだけど。

 

 

 

孤独を極めることによって、どんどんと独り言が増えてきた。独り言とは言っても、口に出すタイプではない。頭のなかで繰り返されるようなものだ。頭のなかで、存在しない聴き手に対して世間に対する悪口を、日々変化や進化もすることなくぶつけていく。

 

壁に向かってボールを投げるような独り言だ。なんの凹凸もない壁だから、自分の投げたボールは正直に跳ね返る。だから、自分は跳ね返りに対して先回りすることが出来る。つまりは、自分にとって都合のいいように独り言は進んでいくのである。つまりうs自分の言葉が常に正解になってしまう地獄のような空間である。

 

最近は、その独り言にたいして、相槌が混ざるようになってきた。自分の独り言に対して、架空の聞き手なりインタビュアーなりが、ウンウンと頷いてくれるのである。自分の悪口を肯定してくれる、まさにイエスマン。だから、私の独り言はさらに酷さを増す。

 

傲慢で独善的な価値観がどんどんどんどん増長する。どんどんどんどん歯止めが利かなくなる。そして、どんどんどんどん許せなくなってくる。どんどんどんどん器がどんどんどんどん小さくなる。私は世間から完全に浮いてしまったと確信する。こんな確信は求めていなかった。

 

 

 

「行き止まり」にぶつかった感覚は前々からあったのだが、それに対しての解を導き出すことは未だに叶っていない。ただ無機質な壁や、ダミーの扉を見つめて、時間を潰すように手のひらで触れてみるくらいで、いたずらに時間だけが過ぎていく。人間の一般的な寿命を持て余していて、どうしてこんな70年80年も用意されているのだろうと、不思議だし怖い事のように思えてくる。私と猫の寿命が入れ替わっていれば、もっと私は謙虚に、向こう見ずに生きて行けたかもしれない。太陽が見えるような時間帯でも、こんな意味もなく、そして辛くなるだけの思考ともいえない遊覧を繰り返して、カレンダーは人生史上最速で、厚みを失っていくのである。

 

どうしてこうなったんだろうか。


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