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元意識高いブログ・晋也ジェネレーション

最近の話題はラジオ。ニコ生を1年で脱出し嫌いになったり、リア充/オタクワールドいずれにも住めないブログ。

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投票したことをSNSに上げているようだと、また年寄りに笑われるだろう

真面目風

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深夜ラジオを毎日のように聴いていると、俗っぽくあることが正しく、なにかカッコつけたり真面目になることがイジりの対象になって然るべき、という誤解をしそうになってしまうが、こういうものは大抵バランスの理論に従うべきである。俗っぽく生きてみたり、はたまた真面目ぶってみたりと、交互に自分の側面を見せていこうということで、今日は真面目なことを書いてみる。

 

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投票済証明書自体はここ数年でかなり有名になった。規模の大小に関わらず、多くの選挙で存在が確認されている)

 

何回か前の全国的な選挙から、SNS上に、投票に行ったことを報告する、という投稿が見られるようになった。そして、今回もこの動きは各所で目撃されることだと思う。

 

具体的にどういうものかというと、どうやらある申請をすると、投票にいったことを証明してくれる小さな用紙を貰えるらしい。投票用紙とさほど変わらないくらいで、そこまで良質でもない紙に、それっぽいことが書いてあるのだ。

そんな「証明書」をつまんだ画像をアップロードして、堂々と「投票に行ってきました!」という報告をする。そんな投稿が、だんだんと珍しくないものとして定着しつつある。

もちろん、証明書をまるで印籠のように見せつけずとも、テキストメッセージだけで「投票に行きました」と、淡々と報告する者もそれなりにいる。

TwitterFacebook、自分は明るくないが、instagramなんかでも沢山流れそうな雰囲気が、今週末にもありそうだ。

 

結論から言うと、そんな「報告」ムーブメントがあるようでは、まだまだ中高年層に花で笑われるんだろうな、と考えている。

 

 

 

 

特別なことだから報告する

 

なぜ報告をするのか。ということに着目すると、彼らにとってそれが特別な出来事だからである。そして、報告をすることで、周りに対して政治参加をする良質な人間だということをアピールしたい、という深層心理があるからでもある。

 

おそらく、生きていれば何十回、もしかすると3桁にのぼる回数分、投票に行くことになるだろう。全国規模のものだけではなく、投票にはもっとローカルな規模のものだってたくさんある。段々と、それは珍しくない行事になっていくのだ。よく考えてみれば、個人差はあれど、家族旅行の回数よりも、投票をする回数は多くなるのかもしれない。

 

わざわざ画像を添えてまで「報告」に至るのだから、きっとその人は投票する、政治に参加するということに対して極度の興奮をおぼえているのかもしれない。ミュージシャンのライブに行ったようなことと考えているのかもしれない。

ここまで政治参加する、これを特別なことと考えているということは、つまりは、普段の生活では、政治の存在をかなり遠くに設定していると言えるのではないだろうか。異空間に飛び込んだような感覚をもっているのかもしれない。その感覚が「報告」につながっている可能性もある。

 

 

投票率だけは外部要因のせいにしてはいけない

 

若者にとって政治参加が特別なことになっているのは、単純に若者だから、投票にまだ慣れ親しんでいないから、という理由だけではないと思う。

昭和の政治に関する名シーン、のような総集編をテレビで眺めることがあると、政治的な事件や歴史的な出来事はもちろん、政治家という人間がインパクトを与えていた時代なのだなあ、と感じる。長々と書く気はないし、具体的に誰がどう、というのは絶対にボロが出て自分でも嫌になるので割愛させてもらうが、ある種ドラマティックな展開を、政治家の行動、言動に対して、当時の若者や働き盛りの世代は感じていたのかもしれない。

 

西暦にして、1989年から始まっている平成、特に、ここ数年でようやく選挙権を得た若者が、大きな出来事を体感していなかったというとそれは違う。東日本大震災は未だ癒えぬ傷であり、記憶としてもまだ鮮明であり、実際に、あの日自分はこうしたああした、ということを多くの人は語ることが出来るだろう。日本の外になるが9.11もあったし、様々なインパクトが、若者の生き方に多少なりとも、いつの間にか影響を及ぼしている筈である。

しかし、政治家に関してはどうだっただろう。昭和のモノクロ映像、荒い画質の中でいきいきと飛び回っていた政治家像は、平成にはほとんど受け継がれることは無かったと言っていいのではないか。

エンターテイメント的な「引き」があることが喜ばしいことなのかそうでないのか、ということは本質的な問題ではないが、結果として新鮮な選挙権を抱えている若い世代にとって、政治という世界は、世の中にある「面白くないもの」の象徴として映り込んでいる、ということは、あまり突拍子のない意見ではないだろう。

 

現代は、政治に興味を持つには不向きな時代である。それが結果として投票率の悪さにも繋がっているし、投票に行かないことをたとえ投票に行った者に叱責されたとしても、だったら次は参加しようとも思わない、こんなことが仕方ないこととして捉えられているかもしれない。

 

勉強、趣味、スポーツ、恋愛などの、人間が営む生活全般において、外部要因によってモチベーションを削がれる、また高い参加障壁を置かれてしまう、ということは、基本的には仕方ないことだと思う。が、政治に関してはその理論が通じてはいけないと思う。政治に関しては、興味が持ちにくい世の中だから、参加欲求を刺激してくれる政治家がいないから、などの「自分の責任ではない要因」を、不参加の理由にしてはならないのである。なぜならそれが、ゆくゆくの、生活の破壊を導くことになってしまうからである。

 

人間は基本的に感情に依って生きることで活力を維持することが出来るが、ただ、この問題に関してだけは、投票をしないと大変なことになる、という理屈を頼りに行動をしなければならないのである。これが出来るからこそ人間足りえるのではないだろうか。

 

 

 

Facebookの虹色アイコンと似ている

 

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投票をSNS上に報告するという行為は、以前Facebookで起こった、自分のアイコン(写真)に、虹色のオーバーレイを加え、虹色が示す「(LGBTをはじめとした)セクシャルマイノリティ(セクマイ)の権利や考え方を尊重する」という活動と性格が似ていると思う。

自分の写真に虹色のオーバーレイを重ねたのは、セクマイにあたる人々自身だけではなく、その活動や理念に賛同する、色々な立場の人間だった。おそらく、分母の関係から後者の方が人数としては多いと言えるだろう。

しかし、それは、こういった特別な活動が必要である、ということを裏付けるものである。決して活動や、権利を得ようとする人々に対して批判をするつもりではないのだが、この問題は、普段の生活では、当事者に当たらない人々は、どうも今一つ関心を持つに至っていない、ということを示すことになっていた。

また、アイコンを虹色化していないユーザーの中には、肩身の狭いというか、どこか居心地悪さを感じてしまったという者も少なくないはずだ。

虹色化しているユーザーが居る中で、虹色化していないユーザーが、たとえセクマイの問題は解消されるべきであると感じていても、虹色化していないために、この問題に対して無関心、または反抗的な態度を取っていると思われているのではないか、という葛藤を抱く可能性もある。私はその一人だった。

だったらなぜ虹色化しないのか?という問いについては、セクマイの問題に対しては解消されるべきという方針を持っているが、活動の内容自体には共感できない、ということが最も大きな理由だった。

私はその問題に対して普段から関心を持っていたのにも関わらず、虹色化することで、ミーハーな感覚で賛同していると思われかねない、というのが怖かった(自尊心が高すぎるんだけど)。他にもある色々と細々とした理由がまとまって、「なんか違うな、なんか嫌だな」という嫌悪感を形成していた。

 

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虹色アイコンもそうだけど、テロ被害を受けたアイコンのフランス化に関しても同じような印象を受けた。これに関しては、被害を受けているのはフランスだけではないことなど、多少違った要素を含んでいるのだが、ミーハー的で、世界的にも大きな問題を、チープなお祭り感覚にしてしまっているということに関して、SNSに参加している全ての人々が考えるべきだと思う。

 

 

 

あとは投票、開票を残すだけとなった今回の参議院選挙。街並みやマスコミの雰囲気を見ても、今回特別に盛り上がりを見せるとか、インパクトを残すことには繋がらなかっただろう。投票率に関してもある程度予想通り、という中で収まってしまうというのは、多くの人が想定内。国民の政治参加について、「これ前も聞いたな・・・」という文言を、また何度も聞かされることになると思うと、今からちょっと憂鬱になる。


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