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Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

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日記「もしかしたらそれは人見知りではないのかもしれないという自分語り」


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こんにちは。前の記事では睾丸って連呼して少し後悔しています。

 

 

 

早すぎる老け込み

 

やはり、自分がどんどんオジサン化しているのではないか、という疑問は、昨日今日の思考によって、すっかり確信的なものへと変わってしまった。

 

なんというかあらゆる意味で静かな場所を求めているし、五感それぞれに変化の少ない環境を求めているという感じだ。チカチカしないとか、そういうのである。

 

大学の途中から独り暮らしをはじめ、1年近くテレビを買わないまま過ごしていたのが契機となり、テレビ離れが急速にすすんだ。それまでは受験勉強中も平気でテレビを点けているような依存っぷりだったのにも関わらず、その大きなプラスの数字に対してマイナスを掛け合わせたかというくらいに、すっかりテレビが習慣からフェードアウトし、いつの間にかその代役としてラジオが入り込んだ。

 

久しぶりにテレビを眺めるか、と気分転換を図ってみても、テレビがとても「うるさい」ものだと気づいた。音響的な意味でもそうなんだけど、とにかく要素が多いのである。出演者やスタジオ観覧の客が沢山いるとか、テロップやワイプが四隅にあるとか(全て埋めないと気が済まないのか)、無理やりにお金を使っているのかというくらい不必要に豪華なスタジオセットはやはり目がチカチカして疲れてくるし、CMはいちいち自分の嫌な部分をチクチクしてくるような気がするし、なんというか大変だな、という気分になった。子供のころにちょっとだけ、この世界で働けることになったら、と期待したことがあったが、今では自分が持たないだろうな、と冷静に眺めているのである。

 

そう考えると、ラジオというのは焦点を合わせやすい。テレビが同時並行で様々な情報や話題を流してくることに対して、ラジオはそんなことはできない。一つ一つ処理することしかできないのである。だから接していて気分は楽になる。ストレスとは縁遠いメディアだな、と感じる。ラジオのニュース番組では、主なニュースを満遍なく触れることが難しいので、ピックアップして注意深くそれを観察する、という手法が用いられている。これにも長短あると思うが、自分にとってはこれでいいのである。

 

あと最近不思議なことが、朝や昼のラジオを聴いていると、良く、中高年が若かったころ、子供だったころのエピソードが紹介されることがあるのだが、なぜか懐かしさを感じてしまうことだ。当然自分が生まれている年代でもないし、それに対してノスタルジーを覚えるのは不思議でしかない。あるとすれば、子供のころから昔の日本事情とかを、それこそテレビから教わっているから、共感するためのチャンネルが用意されているのかもしれない。ALWAYS三丁目の夕日なんかは、そういう現象を「知らない」年代にも与えたのだろうか。私は生憎観てないんだけど。

 

そういう面も含めて、自分が急速に老け込んでいることを自覚している。そして、同時にこれは良い事ではないとも思っている。別に年相応でない考え方を持つことが悪だ、と言いたい訳ではないし、個性と言い切ってしまえばどうとでも自己弁護できるのだが、どこかで聴いたお笑い芸人のエピソードトークが耳の裏側をさするのである。

 

そのお笑い芸人が40歳くらいになって中学だか高校だかの同窓会に行くと、かつての仲間たちが自分でもビックリするほど老けていたというのである。しかし、よくよく話をしたり、観察を重ねていると、それは、同級生が老けたのではなく、自分自身が老けずに年だけを重ねていた、というのである。そして、それはおそらく、芸能界という場所に存在を置くことによって、その華やかさから影響を受けた結果なのでは、と彼自身は分析していた。

 

単純にうらやましい話であるが、周りから孤立しているという考え方に立てば、その芸人が怖くなってしまった、という感想にも共感できる話である。

 

で、今の自分は、この話の逆に向かっているのではないか、と恐怖を覚えるようになっているのが最近である。関わる人間の数自体、そして質的にも他人との交流が小規模になっていき、ポジティブな感情よりも、反対のソレが多くを占めるようになった。おそらくこの生活が永遠に続くという仮定すれば、同じ年に生まれた者よりも、急速に老けていくのだということは、割と簡単に想定することが出来る。そしてそれは、避けたい未来図である。

 

だからといって、対策を立てるほどの気力を持ち合わせていないのは、すでに老化のモーターがギュンギュン回っている証拠である。あれか。無理してでも、若い!って感じのイベントに行くか。フェスとか、着色料まみれになりながら走るヤツとか。絶対帰ってから文句を沢山書くだろうけど。

 

 

 

「他人に興味がない」・・・?

 

私は、ことあるごとに大きな盾を構えるようにして、「私は人見知りだから・・・」と言ってきた。機動隊が最前線で構えているような、しゃがみ込めば体全体を隠してくれるような盾である。

 

よく考えると、この一言で随分多くの機会を失ってきたような気もする。しかし、それ以上に、様々な面倒事から逃れてきたのは、このセリフであった、ということも然り。実に特殊なカードだ。

 

数か月前までは、本当に自分が人見知りだと思っていた。数年前にアメトーークで「人見知り芸人」の回を視たのを、うっすら記憶に残しているが、それを視た後でも、うん、自分にも当てはまるわ、と思っていた。

 

人見知りといっても、人前に出たくないわけではないし(どっちかというと逆)、人と関わりたくない!ということでもない。人見知りと自称する人間は、誰しもがこの噛み合わない感覚、気持ち悪さを抱えていて、それでも反射的に自分は人見知り的な動作を取るから人見知りだよやっぱり、と思い直し、人見知りというペンキを重ね塗りしていく。

 

しかし、あるとき、ラジオ番組内で、メイプル超合金の赤いバイセクシャル、カズレーザーがぼそっと言った「(僕は)人に興味ないんですよね~」という言葉がするするっと私の体内に巣くうようになった。言葉は音声からだんだんと文章に変化することもあり、眼を閉じるとふわふわっとそれが浮かぶようにもなった。

 

今まで、人見知りとか、恥ずかしがりとか、テンパり癖、コミュ障、色々な型にはめようとしてきたが、そのいずれもが、なんか違う、と最終的には一蹴されてきた。同じ型に身体を埋めている他人を観て、これとはちょっと違うよなあ、という判断を何度も繰り返してきた。

 

今回も最終的にはそういう帰結に至るのかもしれないが、どうも、自分は他人に興味を持たない人間なのかもしれないという疑問が、よりはっきりした状態に変化しようとしている。過去の自分の行動を顧みても、自分の性格を「人見知り」から「他人に興味がない」に書き替えてみると、プロセスの前後を上手く、矛盾なく繋いでくれているような気がするのだ。具体化できないのが悔しいところなんだけど。

 

無論、人に興味がないなんて、性格としては自慢できないものであることは分かっているので、少しづつなんとかしていきたいなあ、と思案している。そういえば、私は自分の話はしても、他人の趣味とか、過去とか、今の悩みとか、そういうのを上手く聞き出せた経験に乏しいような気がした。

 

話している相手に対して、別に相手のことは知る必要もない、なんて冷たいことをいつも抱いている訳ではない。まあ気に入らなければそういうことだってあるのだけど。

 

問題としては、相手に対して、そういう情報や感情の類を引き出したいな、と考えことは何回もあるが、その引き出し方がイマイチつかめていない、ということである。ファシリテーションをやっていたので、学習とか仕事とか、そういう役割に入り込んだ公的な?場面では、議論とか会議に使える会話方法というのを把握しているんだけど、それがプライベート、つまり特別な役割のない状況に置かれると弱くなってしまうような気がする。書いていて、ただのヘタレだと情けなくなってきた。情けないのは今に始まったことじゃないんだけど。

 

それでも、「雑談力を鍛える!」的な本を読もうとは一切思わないけど。こういうとこだな。


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