Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

誰が表彰台に3番目までしか上がってはいけないと決めたのか

 

こんにちは。

 

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自分の周りだけだけど、なんだかオリンピックはそれほど盛り上がっていないような気がする。時差の関係が大きいんだろうけど、生放送で視られている人が限られているから、どうしてもダイジェストを視ただけの熱気では話が盛り上がらない。

 

私の周りには、現に「えっもう始まってたんですか」と言った人もいたけれど、それは全然おかしいことではないとも思っている。今の時代は、そういう人がいても良い社会なんじゃないかな、という感覚でとらえている。

 

私は熱中しているけれど、ちょっと違うんだけど、そういえば、民放局でオリンピックを視ていないことに気づいた。だいたいNHKのBSで事足りてしまうのである。その証拠に、民放放送のオリンピックテーマソングが全然分からない。本当に歌いだしも分からないくらいだ。ちょっと視ようと思ったけれど、CMがどうしてだかチクっときてしまったのですぐに止めた。

 

人々がより自由に、より簡単に自分の趣味趣向を選択できるようになったのが現代だと思う。職業選択の自由のような感覚で、だ。

 

アメリカはCSの1局が独占放送しているらしく、本当にオリンピックが好きな人しか視ない、という状況になっているらしい。盛り上がり方も人それぞれである。繰り返しだが、それでいいと思う。

 

 

 

 

で、タイトルの回収。

 

今まで何度も考えてきて、時には無理くりに理解させようとしてきたんだけど、やっぱり、「銅メダル」と「4位」との間にある差は、そんなにないと思っている。もちろん、3番目に強い、ということと4番目に強い、という差自体は理解できるけど、それ以上に、メディアひいては世間全体の目の色は、そんなに大袈裟に変わっていいものかと不安な気持ちになる。

 

こんなことを言っては元も子もないじゃないか、となってしまうけれど、一体いつ、誰が表彰台に上るのは3人まで、と決めたのだろうか。

 

よく考えてみれば、トーナメント形式の競技であれば、3位決定戦という概念はなかなか不思議な存在ではないだろうか。準々決勝に負けたところで、5位から8位は特に決めたりしない。しかし、表彰台に上る3人目、3つ目のチームを決めるために、わざわざ1度負けたのにも関わらず、ノックアウト形式のトーナメントというそもそもの目的に反して?3位決定戦は行われるのである。

 

とはいっても、トーナメント形式の競技は、歴史的に日が浅いのかもしれない。より伝統のありそうな陸上競技を例に挙げれば、これはトーナメントではなく、速い順に明確に順番が決定する。投てきをする競技や、跳躍をする競技などでも、明確に順位は決まる。だから、3位決定戦という手間をかけるまでもなく、3位は簡単に決まる。

 

とはいっても、それは、「そもそもなぜ、3番目と4番目の間に区切りをつけたのか」という疑問が残る。これは間違いなく、相当なそもそもだ。

 

blog.livedoor.jp

 

r25.jp

 

1つ目の記事は、金銀銅の3つが、元素周期表に裏付けされた金属であるということなどを挙げている。

 

2つ目の記事は、心理学や、奇数、とりわけ3という数字、括りに対して人類が抱いてきた感覚、また経験が、3位までにメダルが授与され、盛大に表彰する理由となっていることを説明している。

 

ついにはオリンピック憲章を覗いてみることにした。まあ直接的な発見はなかったけど面白かったので、暇があったらどうぞ。

 

www.joc.or.jp

 

なんというか、この約束というか伝統は、今更疑うようなことでもないのかな、という気がしてきた。いつの間にか存在していたけれど、かなり根深い部分で受け入れられている感覚と言っていいだろう。

 

それでも、私自身がとても偏屈な人間だから、違和感というのはそれなりにある。「2位じゃダメなんですか?」という言葉とはまた異なる立場だ。1位と2位の間には、やっぱりとても大きな差がある。別に勝負の世界になんか身を置いたことがないから偉そうな感じで申し訳ないんだけど、1位というのは、その大会、その競技において1度も敗けなかった、ということを示している(例外はあるけど)。これは恐ろしいことであり、かなり誇らしいことである。2位は、やっぱり最後の最後で負けてしまっているから、その差は明確である。

 

ただ、やはりトーナメント形式の話になってしまうが、3位と4位はどうなのか、ということを考えてほしい。3位は1回、4位は2回負けているが、1回と2回にはそれほど大きな差を感じない、私はそう考えている。

 

ところが、実際には、マスコミの捉え方をみると、1位と3位の差はそれほど大きくないように感じる。メダルを取った、ということをとにかく称えるのである。

 

それに対して、3位と4位の差はとてつもなく大きい。雲泥の差というのはこのことを言うのだろう。この差によって、人生が大きく変化したという選手の話もあるくらいである。私の感覚としては、1位と3位の差の方が、もっと大きくあるべきなんだと思う。

 

だったら妥当な評価の仕方というか、捉え方はどこにあるんだろうか。ひとつの考え方としては、オリンピック、ほか様々な大会において、どれだけ多く競技に参加したのか、ということに重きを置いていいのではないか、と考えている。

 

選手のインタビューで、よく「できるだけ長くプレーをしたい」という言葉を耳にする。参加し続けることに大きな価値があるのだとしたら、その時間、回数に対して注目をしていけばいいのではないだろうか。トーナメントで言えば1位と2位、陸上のトラック種目で言えば8人が決勝に残る。

 

また、マラソンのような種目では、この考え方でいくと最下位が一番参加していることになってしまう。しかし、先頭集団にいること、または先頭を争い続けることが「参加」の代用だとすれば、少しはズレが誤魔化せる。

 

そもそも出場することだってとんでもないことであり、プロ中のプロとして戦っている以上、世間が望む成績を収められなかった、ということに対してとやかく言う権利が外野にあるのかは怪しいところだ。

 

とにかく、最後まで残った、ということをもっと称えるべきなんじゃないか、自分としてはその方がしっくり来るのである。

 

 

 

そういえば、私が相当幼かった、まだ小学校にも入らないようなときは、友達(だったかな)と、「1位は金メダル、2位は銀メダル、3位は銅メダルだね」と話し、いつの間にか、4位以降のメダルの色を言い合っていたような記憶がある。3色に次ぐようなそれっぽい、威厳のありそうな色を幼いなりに考えて、私はその時、確か赤メダルと言ったような気がする。話していた誰かは、白メダルだかを挙げていたかもしれない。

 

メダルとは何だ、というどうしようもないクエスチョンを、オリンピックの華やかさに舌鼓を打ちながら、もう少し考えてみようと思います。