Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

簡単に「面白くない」とか言わないで

 

笑いの構造

私はお笑いがとても好きで、子供の頃から子供向けアニメや教育テレビや特撮やロボットやそこらへんをすっ飛ばしていつもお笑いだったりバラエティ番組を観ることが習慣づいていた。

それだけバラエティにハマっていくと、段々とその構造的な面白さに気づいていくのも、今振り返ってみれば早い方だったのではないだろうか、と思っている。

エンタの神様に対しての嫌悪感を、小学生の頃から抱いていた。お笑い好きを拗らせてしまったからこそ、同じ世代が狂ったように真似をしているようなエンタ芸に対しては距離感を持って眺めていた、という感じ。それが何でだったのかと言うと、どこか作られたような雰囲気、ということが全てで、あの番組で発生している笑い声は、無理くり作られた人工的な何かだ、という感覚を持っていた。ネタ中にテロップが出ているという当時は珍しい演出に対しても、これはお笑いと言っていいのか、という変なこだわりが入るスイッチになっていたような気がする。この前また特番をやっていたが、その感覚はあまり変わらなかった。お笑い観に対する成長が無い、ということなのだろうか。

バラエティ番組で使われる手法には、感心することの方が多かった。トーク番組でよくあるのが、そこにいない人の話をしているとき、決まって右下か左下に彼か彼女の顔写真、権利の都合上やら裏番組やらで使えない場合は似顔絵がパッと出てくる、というもので、これがあるのかないのか、であるとだいぶ笑いだったり、単純にその話に入り込んでいけるか否か、という効果が決定的に変わってしまうことに気づいた瞬間、何かすごい発明を閃いたような、跳ねたいタイプの喜びが出てきたものである。

そんな感じで、このタレントはだいたいどういう役割をもって番組に参加しているのか、このナレーターが使われているときのターゲットとなる世代や性別はどこら辺にあるのか、このアナウンサーが出てきたということはどういうこのなのか、仲が悪かったりするからこの人とこの人とは共演が無いのかもしれない、とかいろんな「ウラ」を考えるようになってきた。純粋に楽しむ視点とはかけ離れてしまったので、「なってきてしまった」という言い方の方が適当だと思う。悔しい。

そういうことが分かってくると、段々とパターンが徹底されているゴールデン帯の番組を観ようという気持ちは無くなってくる。情報バラエティの情報は数週間前にネットで見かけたような気がするもの、またはそんな気がするほどに大したことが無いものばかりだし、1時間番組の40分当たりで感動のシーンが流れます、という宣伝を1週間前からやって台無しにしたりするし、同じような装飾のテロップが上の方に並んでいるのは日テレの得意技だし、結局幼いころから見ているから、さすがに飽きちゃっているよ、ということなのである。深夜番組、その中でもパターンを信じようとせずに発明を試みているような番組じゃないと価値が無いようにも考えるようになってしまった、なんというか、やっぱり拗らせてはいる。

このパターンというのを、じゃあ説明してくださいよ、と言われるとそれは出来ない。あくまで自分の中でこうだろう、というものである、というだけで、所詮はただの視聴者でしかない。たまたま同世代の平均値よりも格段に長い視聴時間を持っている、というだけなのである。そんな自分から発せられる意見にあまり価値はないし、何より嘘をついてしまうことになる。ただ自分の中でだけ、納得できるようなパターンがある、というそれだけのことだ。

賞レースの分からなさ

多くの若手芸人の間で、賞レースに勝つ、ということが目標になっていることは、もう当たり前のことではなくなった。それまでは、まあスター発掘番組で10週勝ち抜きするとか、地方レベルだったら新人大賞的な何かがあったりはしたが、やはりM-1は衝撃的だったと思う。それまであまり露出の多くなかった芸人がどんどん出てきて、あっという間に日本中の茶の間を笑いと驚愕が混ざったような高揚感の渦に吸い込んでしまう。他の番組では絶対に味わうことのできない魔力はそこにはあると思う。賞レースというのはやはりおかしな空間だ。

どこかでベテラン芸人が、「賞レースでネタ後の芸人がそろって『(ネタをやりきって)楽しかったです』とコメントすることの意味が分からない、と言っていたのだか、これはもう感覚の違いというか、M-1が出来る以前と出来た後、M-1というタイトルがあることで漫才という文化の入り口をくぐることが出来た、そんな違いが決定的にあるので、こういう若手の感覚が分からない、というのは仕方ないことだと思う。甲子園の高校球児が最近やたらとニコニコしていることに対しての理解ができるか否か、ということも指標であるのではないだろうか。

そして、賞レースの分からなさ、というのはどういうことなのか。それは、前段で述べた「パターン」というのが、どうにも予測できない、という独特の雰囲気にあるのだと思う。「面白さ」ということをだけを求めるなら、単純に良く知られた知名度の高い中堅芸人を集めてトーク番組を組んだ方が良いのかもしれないが、やはりこのパターンの分からなさ、どう転ぶかどうにもこうにも分からないし、やはり予想を覆していく感じ(予想が覆される、というパターンは存在しているには存在しているのだが)、これを求めているのではないだろうか、と思っている。

彼ら芸人はバラエティになればお笑いを提供する演者、ということになるかもしれないが、賞レースになればその顔を変えている、と考えている。賞レースに臨む姿はある種のアスリートに近い。

私の最近の賞レースに対する見方は段々と変質してきた。いいボケをかます、ツッコミがかっちり決まる。その度に自分の中で笑いが起こると共に気分が高揚して、血潮がうねる。あーたぶんボクシングを観ている人ってこんな感じなのかな、という感覚はある。そろそろスポーツバーで見せてくんないかなとか思ってる。

ライブシーンで絶賛されていてもどうなるか分からない。テレビになれば、煌びやかなセットなれば、「おそらく事務所に所属してるんだろうな」感のある若い女性ばかりの観客がいつものお笑い好きの代わりに観客席を陣取っていたら、ネタ時間が制限されていたら、あの出囃子と共にアドレナリンが暴走したら、様々な環境の違いによってその結果は大きく変わってくる。ライブでは大ウケだけど、テレビでは使えない言葉が含まれているかもしれない。PTAや誰の親でもないのに必死にクレームを入れたいような変人がたくさん見ているかもしれない。そういう状態で、おそらく彼らの「いつも」は頼りないものになってしまう。

理論や科学的な根拠が厚い信頼を得ているのが現代である。ほとんどの人は仕事において、そういう理論的な部分を後ろ盾にビジネスを進めているだろうあ。ある部分でコミュニケーションや見た目のイメージだったりが鍵となるような場面はあっても、そのコミュニケーションでさえ理論のサポートが為されている。

お笑いをはじめとして、こうした理論的なフィールドから離れている文化の孤高さ、希少さからくるかけがえのない価値、というものは、私の中で大切にすべきものであると思う。後から言えばこれが原因だあれが良くなかった、何とでも言えてしまうのだが、そんな展開をどう予想しようというのだろうか、ということはそういう無粋な人々に聞いてみたいものだ。

面白いはコミュニケーションの結果

最初から面白くないだろうな、と思ってしまえば、大体その通りに面白くなくなってしまう。最初から笑う気が無ければやっぱり笑うことが無い。大体はそんなところだと思う。

お笑いに関係なく、無責任に「面白くない」と捨て台詞を吐く人は少なくない。これにはすべり笑いが普及してしまったことによる副作用、という見方もできると思う。ただ、一般の場面で「面白くない」と言えばそれはスベリからスベリ笑いに落ち着くことは無く、ただただ嫌な雰囲気が流れるだけになる。こういう目にあった人は共感してくれるかもしれないが、笑いたいなら多少は協力してくれ、ということを言いたくなる。ただただ誰かにむちゃブリをして偉くなったような気になっている人は自分の尿を啜るべきだ。それくらいのことをそういう奴らはしている。

賞レースを観ている人の中にもそういう「笑う気が無い」人は一定数存在している。話を聞いたりするとやはり知っているのか、知らないのか、という基準は大きなもので、知っている人は出てきた安心感はとても大きなものだということだ。こっちからしたら賞レースで知らないコンビ(熱心なファンは決勝進出者がだいたい実力者であることを承知だけど)が笑いをかっさらっていく、というスカッとしたストーリーを期待する、という見方をしていただきたいところではあるが。

笑い方を強要したくない

こういう凝り固まった言い方をしている自分が、こうして書き進めていると次第に古いタイプの相撲ファン、みたいなものに思えてくる。「変わり」をしてはいけない、横綱は相手を受け止めつつ勝つべき、喜んではいけない、色々な暗黙のルールを課しているのが伝統的な相撲ファンで、それに対してそこまで相撲の文法を知らなければ、別に今の時代だし海外の力士も増えたんだからもっと感情的に、もっとアスリートめいた感じでやっても良いんじゃない?と思うかもしれないが、ファンとしたらそれは相撲から外れることになってしまう。

そういう伝統的なものを守りたい、という暗黙的な感覚が私の中にお笑いに対してあるのかもしれない。上の例えを経ると、あまり良いものではないのかなあ、と思う。

結局反射的なものなのか

笑いは極めて感情的な、非科学的な前提にあるもので、色々考えても結局「反射的に笑えるかそうでないか」というこのなのではないか、という大したことのない結論にしか至らなかった。面白かったならそれまでだが、面白くなかった瞬間からなぜ面白くなかったのか、ということを、理論的なルールの上には立っていないのに、理論的に考えようとしてしまう。それらしい原因は見つかるのだが、果たしてそれが確かなものなのかを検証する機会は与えられないまま、「それらしいもの」として残り続けるのである。

(最近まで下ネタが嫌いだと思っていたのだが、それもどうやら「面白くない下ネタ」が嫌いだった、ということだけだった。面白い下ネタにはラジオを聴きながら笑っているのだから、これもルールブックに書くことはできなかった。)

結局笑いは面白いかそうでないか、それだけでありそれがとてつもないものなのである。分かんねーまんまだから楽しい。

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