Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

【ネタバレ注意】佐藤多佳子『明るい夜に出かけて』を読んだ。アルコ&ピースのANNと主人公たちがどうシンクロするのか!?

 

こんにちは。

 

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https://unsplash.com/photos/16ad3Hx4_fU

 

一昨日Amazon Musicの海を潜っていたら、それまで全然触れてこなかったジャンルに出会ってハマりそうになっています。ポストロック?エレクトロニカ?もう音楽をジャンル分けするのって限界が来てますね。余談。

 

発売が開始してすぐに買った、佐藤多佳子さんの新作『明るい夜に出かけて』という小説を最近までちびちび捲っていて、昨日やっと読み終えたので、拙いながらも感想を書いておきます。

 

なお、ネタバレはできるだけしないように書くつもりですが、ネタバレしている/していないという判断はあくまでも主観的なものに依存しているため、いくら私がネタバレを避けたと思っていても、他人の視点ではそうでもなかった、というすれ違いが起こる可能性は捨てきれません。

 

そのため、今回の感想はネタバレを含むものとします。あらかじめご了承ください。

 

 

 

 

Amazonへのリンクです。

明るい夜に出かけて

明るい夜に出かけて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主人公は『アルコ&ピースのオールナイトニッポン』のリスナー

 

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http://cdn2.natalie.mu/media/owarai/2012-09/extra/news_xlarge_a-IMG_8432.jpg

 

この小説の最大の特徴でありそれがすべてと言っていいくらいのポイントが、主人公である、大学生活を一時停止(が完全停止になるかは決まっていない)して、(とりあえず)1年限定の一人暮らし、そして深夜のコンビニアルバイト生活をしている男子大学生、更には彼の淡々とした「逃亡生活」を狂わせにかかる人物数名がヘビーリスナーとして熱狂的に聴いている深夜ラジオ番組が、2014年4月から2015年3月まで、実際にニッポン放送から全国ネットで放送されていた、『アルコ&ピースのオールナイトニッポン』である、というところにあります。

 

最近、度々ラジオの話をしているのですが、改めて説明すると、数々の芸能人、ミュージシャンがその時代時代を彩ってきた『オールナイトニッポン(以下ANN)』の中で、『アルコ&ピースのオールナイトニッポン(以下アルピーANN)』は様々な意味で異質な存在として認識することができます。

 

アルコ&ピースが、一流芸能人のラインナップの中で、まだお笑い界で確実なポジションを獲得しているとは言い難いお笑いコンビであること、

 

深夜3時からの「二部」からスタートして、翌年は深夜1時からの「一部」(この一年間が小説の題材になっている)、そしてもう一度「二部」で一年間、というこれまであり得なかった時間帯の変更をしつつ生き残った点は、この番組が熱狂的なファンを獲得し、ラジオ界の中では確かな存在感を放った、ということを裏付けています。

 

そして、物語中でも、当時実際に放送されていたアルピーANNの内容が、単語も誤魔化されたりすることなく、そのまま文章として生きた状態で読み手の方にやってきます。

 

これによって、読み手が同じくリスナーだったのであれば、まるで、自分が聴いていたあの放送を、あの電波を、物語中の登場人物が同じように聴いていたのか、という錯覚に似たリアリティを感じることができます。正直、お笑いラジオの内容なので、文字に変えればしょーもないなあ、となってもしまうのですが、そこはご愛敬。

 

 

 

ラジオとの、不確かだけど確かな距離感

 

 

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http://free-photos.gatag.net/2014/04/15/000000.html

 

主人公は、元々深夜ラジオ全般のヘビーリスナーであり、コーナーなどにネタを送り、多数採用されるような、その界隈では有名な「ハガキ職人(今は主にメールで送るのですが、以前の名残からこう呼ばれています)」でした。

 

しかし、とある事件をきっかけに、主人公はネットで「晒されて」しまいます。世間にとってはなんてことはないのですが、彼にとっては大きなダメージを受けるものとなってしまい、それが、一年間の「逃亡生活」に繋がっています。

 

深夜のコンビニバイトを生活の主軸としている物語中では、ハガキ職人としてメールを送ることは辞め、ひとつ距離感を保ったままラジオと向き合う日々を送り、その中でも特別な想いを抱いているアルピーANNに対してだけは、以前とはラジオネームを変えてネタを送るようになります。

 

この他、主要な登場人物の中には、アルピーANNに高頻度で採用される職人や、主人公と同じくヘビーリスナ―である人物がいるのですが、いずれも、小説にしてはある程度の距離感をアルピーANNと保ったまま、物語が展開していくという点は、個人的には意外でした。

 

読む前、この作品の触れ込みを聞いた限りでは、もっとラジオとの距離が「近い」のかな、と勝手に想像していました。例えば、主人公のメールに対して、アルコ&ピースの二人、平子さんや酒井さんが何かメッセージを送るだとか、もっと「近い」形でのリンクを浮かべていました。こう考えると、そういう接し方はベタでありやりつくされた形だなあ、と笑えて来るんですが。

 

言ってしまえば、そういえば、アルピーの2人は小説中にセリフを発することがありません。ラジオの内容に関する描写はあっても、カギカッコで囲まれた言葉を彼らは持っていません。

 

また、ラジオの内容が直接、登場人物たちに変化を起こす「スイッチ」になる場面はほとんどありませんでした。あれがもしかすると「スイッチ」になってるのかな?というシーンは幾つか思い浮かぶのですが、誰もがハッキリと分かる、というレベルでは、一つもないんじゃないかな、というくらいです。終盤の展開は「スイッチ」と言えるのかな。それだとしても、「スイッチ」によって引き起こされる「行動」の方が薄かったとも言えます。

 

アルピーANNの内容は、あくまでダイジェスト的に語られています。個人的に、「平甲子園」や「読モ会」は番組にとって重要な出来事だったので、この物語でもどう語られるのかな、と思っていたのですが、やはりある程度の距離感を保ったまま主人公はアルピーANNと交わらずに、眺め続ける、といった形に進んでいきます。

 

それでも、これも説明が難しいのですが、確かにアルピーANNとの繋がりはあったのかな、と判断していいと思います。個人的には。

 

 

 

クローズアップしないことで浮き出る「2010年代的なコミュニケーション」

 

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http://free-photos.gatag.net/2015/01/27/000000.html

 

ラジオとの繋がり、ラジオ愛という要素よりは、私としては、SNSを中心としたコミュニケーションの現在進行形について、著者である佐藤多佳子さんが、その捉えようのない人間の思考交換(当事者であるデジタル・ネイティブの若者たちでさえ何をしているのかと聞かれると困ってしまう)の現場を、少しでも形として認識できるものにしよう、と苦心しているのではないか、そんなように見えました。

 

実際、物語も、ラジオがどうとか、アルコ&ピースがどうとか、そういうものよりも、SNSを中心とした、私が勝手に名付けるならば「2010年代的なコミュニケーション」が生物に近い、高い鮮度を保った状態で、文字として打ち付けられています。

 

SNSに限定せずに「2010年代的」と言ったのは、主人公が大きな傷を受けた「Twitter」が勿論目立つのですが、それ以外にも、コンビニバイトの深夜シフトを支える先輩バイトの男が、「ニコニコ動画ニコニコ生放送」にて「歌い手」としてそれなりに活躍していたり、登場人物同士が当たり前のようにLINEを通じて会話をし、普段はラジオのリスナーでありながらも彼ら自身がラジオのような配信に挑戦してみたり、と様々なツールをごくごく自然に使っている点にあります。

 

しばらく読書の習慣が抜けていたから、すっかり私の方が浦島太郎状態なのかもしれないのですが、活字というメディアによって2010年代的コミュニケーションが扱われることにわざとらしさや大仰さがない、ということは興味深い点でした。こういう傾向はどんどん強くなっていくんだろうなあ、ということも考えました。

 

2010年代的なコミュニケーションには、まだまだ難しさがあるというか、(特に難しさを感じた末に殆どのSNSから離脱してしまった私だったり)ちょっと上の世代からすると抵抗が拭えない点がありますが、受け入れがたい、できればもっと古風なままでコミュニケーションが固定していてほしい、という願いはきっと受け入れられることがなく、どんどん「当たりまえ」が増してきて、その間にも新しい形のコミュニケーションが、人々を何かしらの「ふるい」にかけていくことになるでしょう。というか、2010年代と言ったけど、もう後半に突入してしまっているのですから、もうコミュニケーションの前線に戻ることは不可能なのです。

 

繰り返しになりますが、この作品、『明るい夜に出かけて』の特徴は、単にこれらの2010年代的コミュニケーションを用いただけではなく、それらの要素を(分かり易い形で)効果的に挟むことはなく、あくまで「こういうのが普通なんですよ」といった姿勢で表現されていることにあると思います(まあ、もっとこういったツールに対して敏感ならば、こんなことを考えもしないんだろうなあ、という寂しさと共に書いています)。

 

 

 

思っていたよりもずっと楽観的な話だった

 

どういう話だったのか、というのは大きな個人差があるところなのですが、私は読む前に、相当覚悟をしてから読み始めたのですが、終わってみればそこまで「辛い」「抉ってくる」シーンはありませんでした。

 

どういう「辛さ」を想像していたのかというと、大学生が1年間休学して「逃亡」するのだから、友達ができないとか、出来たところで大学生特有の浮ついた雰囲気に着いていけないとか、それでも着いて行かないと取り残されてしまうから自分を誤魔化して世間の流行という多数派に迎合していく感じとか、好きでもない芸能人を好きだと言わなければいけなかったりとか、そういった感じの痛みを覚悟していました。じわじわと効いてくるボディーブローのような痛み。

 

そして、なにしろ、こういう部分をネタに昇華し続けたのがアルピーANNであったからです。

 

主人公は実際には、もっと辛いし抉られていたんだろうというのは理解できるのですが、その痛みの大半は行間や頁間に隠れていて、文章中では次々と物語が明るい方向に進展していくので、(勝手に)思っていたよりもずっと楽観的に読み進めることができるように構成されていました。実際、主人公は他のキャラクターに連れていかれるようにしてどんどん色んな場所に出かけていきます。主人公のソレは、そんな簡単な「傷」だったのか?と思わせるくらい次々と展開していく様子は、正直なところ違和感がありました。

 

・・・ここまで「面白かった」と一度も書いていないのですが、この話が面白くなかった、というよりは、私個人の問題で、ラジオ要素を期待し過ぎたのが仇になったのかなあ、という感想を持っています。作者のラジオ愛が伝わる部分は確かに存在していたのですが、物語の心臓部に刺さってくるかとなると別問題でした。

 

あくまで『明るい夜に出かけて』は、ラジオをおかずとし、主人公をはじめとした登場人物同士の関わりが主食であり、この前提を踏まえていればもう少し楽しめるのかなあ、とも感じました。

 

(ネガティブなことを言っていますが、あくまで私自身の感想です。)

 

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長くなってしまったのでこの辺で。読んでくださりありがとうございました。