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Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

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12/6の日記【雑】


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「日記1206/2014」

 


MUJI BGMで音楽の世界旅行へ - YouTube

無印良品、および良品計画と関係のある動画かはよくわからない。)

 

2014年12月6日。

 

 

日記のカテゴリには、なんというかモヤモヤしているけれど書きたいこと
を書いてみることにする。それがどういうことなのかはよくわからない。
わたしもよくわからない。でもブログ公開はするので、公開していいこと
だけ書く。

 

 

 

○時間が早くなった、そう思わざるを得なくなってきた。

 

時間というものは人によって感じ方が異なるものであると、最近になって
納得がいくようになってきた。それまでは、年をとればとるほど時間が短
くなるように感じるということを、共感はしていたが本当にそうかと言う
と怪しい部分があった。しかし、突如腑に落ちるようになったのである。

よくよく考えてみると今年の秋に踏み入れたあたりからだろうか。ふっと
顔を上げると、随分と時間が経ったなあ、と感じることが増えた。

そして、いつの間にか、例えば、2時間という猶予を与えられても、短い
、と感じるようになった。2時間あれば様々なことが可能である。例えば
、記事を書くにしたって、短いものであれば4つは確実に作ることができ
る。やはり質によるものだが、それで数日感の間は、次はなにを書こうか
なあ、なんてことは考えずに済む。なにも考えていないときのほうが、こ
れを書こう、と閃くことが多い。自分から求めては遠ざかるだけ、という
ことなのだろう。……それでも、2時間では短いと感じるようになってし
まった。

子どもの頃は、僅かな時間でもゆっくりと、じっくりと消費していたよう
な気がする。学校の授業は45分、また50分が主だったが、やはり長く感
じた。半分位で息をつき、ちょっと外を眺めないと気がすまないのだ。半
分経ったときに見るだけだから、それ以外の時間は教室平均よりもずっと
しっかり話を聞いているのに、そういうときに限って先生に見つかってし
まうのは癪なことだったりした。

それ以外にも、自分が楽しいと感じていたサッカーの試合だって、なかな
かに退屈なものであった。わたし自身が出るサッカーの試合はその半分以
下だが、プロのサッカーは45分ハーフ、合わせて90分である。今でこそ
、大学の講義一つの時間で二つのチームの明暗を分けてしまう、と思うと
もったいなく感じてしまうが、90分集中してサッカーを見続けるのは結
構な苦行だった。現地に見に行った試合でも、試合がつまらないわけでは
ないのだが、キックオフから20分も経てば売店のフランクフルトが気に
なり出す、そんな子どもだった。そんなことだからサッカーが上手くなら
なかった、と言ってしまえばそうだ。そういえば、プロ野球の試合だって
、最初から最後まで全部見ることは貴重だ。テレビ観戦では有り得ないし
、現地だったとしてもどっかで力を抜くことが多い。

今は塾講のアルバイトをしているが、生徒には彼らが学校で受けている授
業時間よりも2倍近い長さの授業時間を強いていることになる。だから、
生徒が途中で集中力を欠いたりしても、そりゃあ長いから仕方ないよね、
と同情することが先になり、なかなか注意することができない。生徒とし
て塾や予備校に行ったことがないから、どうしても勉強を強いるのが苦手
である、ということもあるが、彼らにとってもこれくらいの時間は長くて
仕方ないはずだ。

大学に入ってからの授業時間も長く感じていた。90分。この時間の中で様
々に話が映ろうような環境であれば話は別だが、専門的な事項に関してこ
の講義時間を費やすのだから、簡単に話は展開してくれないのである。サ
ッカーで例えれば、意味のなさそうなバックパスの連続を見れられて、テ
レビの解説者に「焦っちゃダメですからね、じっくり狙うんですよ」と窘
められているような気持ちだ。前提とか、そういうのを聞かなくてはなら
ないのは重々承知だが、それでもムズムズしてしまう。……ということ
は、やはり木々が赤らめてからの季節、なくなってきたような気がする。
90分という数字上変化のない時間を、あっさりしたものと感じるように
なった。

そうして今、わたしの中には不安が占拠している。彼は、これから時間が
どんどん短くなったら、さらに年をとって、さらに一日が短くなって、今
1日を感じている体が、24時間という周期ではなく1週間というそれを一
つのセクションと捉えるようになり、どんどんどこどこ時間は縮まり、最
後には音も立てずに0がやってくるのではないだろうか、彼はそう言って
わたしを崩していくのである。黙々と、粛々と。彼の立て篭りは易易と鎮
まらない。なぜならその占拠は非合法とは指摘できないからである。長期
戦が予測される。わたしの時間がなくなるまえに、なにかを変えなくては
ならない。

 

   

 

 

 

○『ユリイカ 12月号』を買いました。これから読みます。

ユリイカ、という雑誌を初めて買った。バックナンバーの表紙をみるに、
ポップカルチャーに精通しているもののようだ。中身は全く知らなかった

そんな雑誌をなぜ購入したかというと、結構集めの雑誌がまるまる「百合
」という愛すべき未知の文化を特集しているからであった。冒頭の説明で
「百合とは女性同士の友愛」と述べており、友愛、そんな真面目で未知未
知しい単語を当てはめた説明は聞いたことがなかったので、購入すること
にした。中身をパラパラると、とても真面目だ。縦書きで、文章がビッシ
リと書いてある。漫画雑誌『百合姫』を、隔月刊ごとに本棚に誘うくらい
にしか百合を知らなかった私だが、単なる楽しいコンテンツとして百合と
接してきたわたしには新鮮な世界になるだろう。

その真面目に感動し次第、感想記事を書く事にしよう。

 

 

 これです。

 

 

 

○少し前のわたしは偽物だったのだろうか?

 

最近になって「元意識高い学生」という名前を付け加えた。やはり、ひと
つだけの発音を名前と称するのは、聞き手に苦労を書けることが多いので
、せめても救済措置、というところだろうか。この言い回しは自分でも問
題なく受け入れることができた。

「意識高い学生」だった時代があった。とはいっても斜に世界を眺める姿
勢は元来のものであったから変わらなかったのだが、大学に入って暫くは
、今では胡散臭い!と一周したくなる言葉を常に使用していた。「頑張ろ
う」。

そして、今年になってわたしはそうあることが馬鹿馬鹿しくなってしまっ
た。頑張るという得体の知れない言葉に支配されていることに気づいたか
らだ。頑張ることはその時点でベターな感情だったが、いづれもたなくな
るだろうということはなんとなく感じていたものである。

今、もう一度頑張ってみようかな、ということを、考えもしない。そうな
ると、その当時のわたしはなんだったのだろうか、ということになる。わ
たしとはまた違った部分なのだろうか。

とはいっても、わたしがやったことにはかわりないし、わたしは特別変な
精神性質を持っているわけではないので、あれもそれも少なからずわたし
であった。偽物というのはやはり危険である。天海春香も、スクリーンを
通して、「今の自分は今までの自分を全て含めたもの」と教えてくれたし
、その言葉を裏切ることはできない。

どうして頑張っていたのだろうか、どうして人脈なんてわたしには程遠く
、そもそも手に入れる気もなかったものを求めていたのか。不思議なこと
なのだが、過去の自分と線をつないでいくために、対話を重ねなければな
らない、重要な課題である。

 

こんなとりとめのないことをっ書いていたら、もう30分が過ぎていた。
目安としていた作業用BGMも終わってしまう。ここら辺にしておこう。


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