Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

クラスのいじめは道徳の教科書より教材になる【エッセイ12】

 

訪問ありがとうございます。エッセイ調なので丁寧語使ってません。

 

 

f:id:m4usta13ng:20141113203545j:plain

 写真:http://goo.gl/tq7tuN

 

どういう話をするかと言うと、

「わたしは道徳の時間に道徳(のようなもの)を学んだ覚えはありません。日々の生活で起きたトラブルが、年を取るごとに抽象化して教訓になったから、学校としても、道徳の教科書は無視して、クラスで起こる些細な問題から教材として扱っていくべきだ」

という内容です。簡単にいうとこのようなことを書いていきます。

 

 

 

1.そもそも「道徳の時間」ってなんなのか

 

今週受けた講義のなかで、日本の道徳教育、とくに小中学校の道徳の時間の意義で話し合う機会があった。

 

この講義は「議論型講義」であって、ハーバード大学マイケル・サンデルによる白熱教室さながらの雰囲気で、学生の発言を材料に政治哲学の講義をする、といった流れなのだが、先の講義は、冒頭のテーマがまさに「道徳教育」についてだった。

 

ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)

 

問いとしては「道徳教育の教科化に賛成か?」というものである。前回の講義に出ていなかったわたしは議論が始まるまで掴めなかったが、最近はこのような動きがあるらしく、すでに様々な議論が各地で巻き起こっているようだ。

 

わたしは教育にも関連の深い分野であるファシリテーションの勉強をしているので、最近のグノシーにもこの話に関する記事がいくつか来ていた。

 


社説:道徳の教科化 子供の何を見守るか - 毎日新聞

 

教科として格上げすることで、形骸化していた道徳の授業にもっと力を入れてもらおうという狙いがあるらしい。点数による評価をするかは明確になっていないが、記述など何らかの形で評価を加えていくらしい。この社説でも疑問視する見方があるが、有名な人物では「尾木ママ」こと尾木直樹氏が反対を表明している(アメブロだけど)。

 


心や価値観まで強制したがる教育って一体何なんでしょうね!?|尾木直樹(尾木ママ)オフィシャルブログ「オギ☆ブロ」Powered by Ameba

 

とても短い文章なので、全文引用する。それにしてもアメブロのフォントはひどい。移籍してほんとに良かったと思っている。

 

学校差、個人差大きいから

国定教科書で統制するとは

何時代でしょうか
社会主義国家じゃあるまいし… 


道徳はとても大切ですビックリマーク
民主主義社会の市民モラルをいかに身につけるかは


これからのグローバルな多文化共生社会の良識でしょう


2018年の国際学力テストもグローバルコンピテンシーに切り替わるというのにね


世界からこぼれていますね

 

いくつか分からない単語があったりするが、多様化を推奨する社会の流れに逆行して道徳のあり方を固定するのはどうなのか、という見方のようだ。多分そのはず。

 

こんな感じで背景としての問題があり、講義に参加していた学生からも様々な意見が出ていた。とはいっても、本場ハーバードの講義とは異なり、学生は予備知識を入れることを求められていないので、ふわふわっとしていて大した意見が出ていなかった模様。この講義はいっつもこんな感じで、それでいて発言している学生は満足気だから質が悪い、といった印象だ(わたし含め)。

 

 

 

* * * * *

 

(補)問いが共有されない議論では、発言がバラバラになる

 

はじめの方は俯瞰していたのだが、学生からでる意見、そして更に教授のファシリテーションぶりを見て気になった部分が合った。「道徳」の定義が思いっきりバラバラになっているということだ。それぞれ道徳という言葉を別々に訳しているみたいなので、話がどこか噛み合わないのだ。

 

そして、この現象はこの教室に限ったことじゃないんだろうな、ということも考えた。それぞれの人間に別々の道徳という言葉の意味が用意されていて、彼・彼女の意味に従ってしゃべっている、という状況だ。ファシリテーションの法則としては、問われている、聞かれていることの意味をまず共有して合意(consensus)を取らなければならないので、本当にこの講義はモヤモヤした。

 

それで、みんな道徳の授業を受けている人間なのに、こんなにその道徳というものが定まってないなら、もう道徳の授業とかいらないんじゃない?というところに達してからは、この講義何なんだろう、とわたしの霊体がどっかに行ってしまった。

 

* * * * *

 

 

 

2.わたしたちはどうやって「道徳心」を得てきたのか

 

わたしが考える道徳心の意味とは、

 

「社会とか共同体における最低限のルールを遵守しつつ、自分の他人の自由とか権利とかを認めること」

 

とかそのような類のものになる。社会契約説みたいになってしまっているが、このように解釈すると色々と辻褄が合う。電車で席を譲るとか、震災のときに助け合う、ということは「最低限のルール」の範囲内に入ると思う。ここはちょっと議論があるかもしれない。

 

多くの社会人、道徳の時間を経てきた人々はこの意味での道徳心を持っている。多くのひとは犯罪をしないし、(これはシュチュエーションによるけど)本当にこまってしまったときはお互い様、という気持ちを持っている。甘くない?と言われるが、メンバーの意見を尊重するファシリテーター性善説を持っていないとやっていられない面がある。

 

そしたら、この道徳心はどうやって培われてきたのだろうか。わたしは、道徳心は道徳の授業以外で育ったのでは、と考えている。

 

私たちの道徳 小学校5・6年

 

……道徳の授業に意味を見いだせなかった、ということは結構前から思っていたことだった。現役の小学生だったことから感じていたことだ。道徳の授業は「いかにもいい話」「いかにもタメになる話」「いかにも偉い話」の連続だった。途上国の子どもが水を汲むのに苦労しているとか、いい話はいい話なんだけど、何とも言えないものだった。そもそも似たような話がテレビや図書館の本にあったから興味が話に行かなかった。どこかで意見が真っ二つに分かれてしまうような問題は取り上げられなかったし、生徒が出すべき感想もある程度決まっているもの、誘導されているので、毒にも薬にもならぬ、といった印象が残っている。

 

……で、そのイイ話のクオリティもそこまで高いというわけでもなかった。テレビを見てれば知ることのできるような話だったり、「オレには関係ないし」と言ってしまえば即終幕するような、生徒からしたら遠い話になってしまう、そういうものばっかりでできている道徳の教科書の唯一の魅力といえば、挿絵と写真くらいだった。そう、道徳の時間は絶好の落書きチャンスになるのである。定番とも言える社会や理科の教科書ともどことなくテイストが異なるので、曲者系男子にはそこだけが楽しみだった。先生にとっては、道徳の時間になると原因不明の微振動を起こす男子が数名いてさぞ不気味だったことだろう。

 

f:id:m4usta13ng:20141113203858j:plain

教科書落書き⑩ / ダヴィデ さんのイラスト - ニコニコ静画 (イラスト)

 

わたしが振り返って「タメになったなあ」と感じるのは、そんな当たり障りもない教科書ではなく、実際に目の前で起こった、クラス内の事件だった。

 

学期末にある1コマの自由な時間「お楽しみ会」でどんなことをするか、バスケットボールがしたい女子とサッカーがしたい男子の激しい争いのさまは、今でも頭の中にある。どんな過程を踏んでどっちに落ち着いたかは忘れたが、ホームルームが口論で「炎上」していたという絵だけは色濃く残っているから、口喧嘩になる前に冷静に対処しよう、という教訓を得た。

 

誰かの上履きが隠されたことがあって、学級会で取り上げられることになった、なんて記憶もあり、その結末はやっぱりどっかにいったけれど、大事になったことで「やっちゃダメなんだ」ということを肝に銘じたような気がする。クラス全体の前で取り上げられなかった問題はやっぱり再発したし、早めに大事にして牽制するという先生の戦略は見事だったと言える。

 

道徳の授業で唯一印象に残ったことがあったが、それも教科書からの話ではなく、先生の実際の経験談だった。椅子ではなく、掃除の時間みたいに机を後ろに下げ、教室の床に生徒を座らせて、教材もなにもなく先生は淡々と話し始め、怒られるのではないか、とちょっとビビった。

 

すると、当時の担任は以前に養護学校で勤務していた、と話を切り出し、その様子を語り始めた。障害という共通点はあるが、視力を失っていたり聴力に何があったり、肢体にハンディがあったり(語弊あったらごめんなさい)、その内容は結構バラバラな、様々な障害の生徒が集まっていて、その子たちの面倒を見ていたんだ、という話だった。具体的な、言ってしまえばショッキングなことも包み隠さず言ってくれたので、目線を外すことができなかった。

 

結論として、だからこう生きなさい、ということはなかったが、メモを見ながらではなく、まさに先生自身の口から発せられたナマの言葉に、幼いク○ガキながらもクラス全体が息を飲んだ時間だった。

 

わたしは、成長していく中で、最初はそれぞれの問題にたいして「○○してはいけない」「○○してあげたほうがいい」という個別的な結論づけを自分の頭のなかに保存していた。そして、年齢を重ねていくうちに、そういった個別的な経験が、だんだん抽象的になって、経験したことのない問題に対してもその教訓を活用できるようになった。振り返るとこういうふうにまとめることができる。

 

そんなこんなで、わたしは道徳心とか教訓、常識の類を、リアルな出来事、具体な出来事から学んでいた。だから、道徳の時間、もとより道徳の教科書というものは基本的に必要ないんじゃないか、と考えている。「心のノート」もうまく活用していた担任を見たことがなかった。それよりも優秀な教材は、もっと身近に転がっているのだから。

 

心のノート (中学校)

心のノート (中学校)

 

 

羽海野チカ3月のライオンにもそんな描写があった。何巻だったかはネタバレっぽいので言わないが、クラスで起こってしまったいじめ問題を学年の教師全員が集結して、そこで起こっていたことを洗いざらい吐かせる、という根気のいる方法によって問題にアプローチをしていったのである。「事件」を振り返るのは苦しいことだけれど、ただいけない、ではなくなぜダメだったのかをはっきりと言葉にしないといけないのだ、ということを教えてくれるエピソードだった。

 

(羽海野さんの物語には、ハチミツとクローバー然り、基本的にはっきりとした善人またははっきりとした悪人は出てこない。みんな人間くささをむき出しにしているから、登場人物の誰も嫌いにならずに済む素晴らしい作品を作ってくれる。)

 

 

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

 

 

 

 

 

だからやっぱり教科書って何なんだ、ということになってしまう。作るならもっと意見のぶつかりあうようなどうしようもない物語を題材にすればいいのではないか。いわゆる在日の話とか、右翼左翼なんて言葉もわたしは2chコピペ保存道場でやっと知ったくらいだし、デリケートな問題を思い切って載せてもいいのではないか。どうせ現場の教員は扱わないだろうし。

 

 

 

 

読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

 

【リンク】このブログを評価してください。