Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

【エッセイ9】セミが死んだ、私はまだ夏だと思っていたのに

 

訪問ありがとうございます。

 

今週は都内の合宿型政策コンテストでおそらく精神を削られながら頑張っていると思うので、この記事は事前に書かれたものになっています。御了承ください。

 

 

 

*   *   *

 

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この世界にこんな夏は存在しない。存在しない。

 

 

私の最寄駅は結構血気盛んというか、予測不能な動きをする昼から酔ったおじいちゃんだの、プールに遊びに来たやんちゃな高校生やそれくらいのひとが比較的たくさんいる街なので、絡まれてしまうこともあったりする。大したことではないのだが、まあこういう街なんだ、という風に結論づけている。

 

ホームで東京方面の快速列車を待っていると、首を叩かれた。空手で言う手刀をくらったような感覚で、どうしてこんなところを叩くのだろう、もしも、私がズボンを履かずにパンツを丸出しにした状態でなにも気づかず家を出ていたので、「すいません、パンツ出てますよ」と注意するとしたら、首の後ろではなく肩を叩くはずだし、ちょっとおかしいなあ、と疑問に思った。無視しようと思ったが、もしも手刀を繰り返し繰り出してきたらどうしよう、当たり所によっては気絶してしまうなあ、とくだらない逍遥をしていたが、やはり気絶してアルバイトのシフトに穴を開けてしまうというのは避けたかったし、本当にパンツが丸出してあったことを注意してくれようとしていたならそれは感謝しなければならないし、もしも私のうなじに独特の希少価値があり、その素晴らしさからうなじモデル(手タレ・足タレがあるのだからうなじにもモデルが居るはずだ)にスカウトをされるのではないかと考え、気づけば私は期待を胸に振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 

またも私の芸能界デビューは後回しになってしまったのか、と、一番可能性の低いであろう「うなじモデルスカウト説」を前提にしたガッカリ感をため息とともに表明したところ、私の後ろには確かに気配があったのである。セミだった。

 

セミが死んでいたのである。Oh。セミ。

 

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大瀬岬。

 

私の後ろでまもなく死んだセミをみて、大体のことが判明した。死にそうなセミが運悪く私のうなじに直撃して、そしてそのショックで死んだのである。確かに手刀ほど広い範囲を叩かれてはいないし、セミっちゃあセミの重みだったかなあ、と振り返り、セミ直撃説を採用することにした。

 

この事件をきっかけにして、これがフィクションなら私の生活は一変するのかもしれない。最近映画やDVDを続けざまに見たので、何か事件があったり天候が変わった描写、鳥が飛び立つシーンがあったりすると、これは新しい展開へのサイン……!?と感じてしまう思考回路が形成されているのである。しかし、これは現実の話なので、そんなことはなく、私の生活は特に大きな変化を持たずに進んでいくことはおおよそ決められたことでもあった。現に私は平和なアルバイトと昼寝を満喫し、こうして代わり映えのない文章を書いている。そしていつものように常態化した眠気を引きずって生きている。

 

エッセイのうまい人、というか感受性の豊かな人であれば、ここで、「思えば、私の夏とセミは切り離せない関係にあった」とか書き出して、人生における様々な夏の様子とセミとの絡みをいくつか書き出して、「次にセミに出会う夏、私はどこで、何を着て、誰とくらしているのだろうか」とかお洒落なことを書くのであろうか。かっこ良すぎる。かっこいいからエッセイを書くという機会が出来るのかもしれない。エッセイを書いてください、と依頼されるのは、そのひとが魅力的な生き方をしているからだろう。一人で勝手に書いている私がどうして夏とセミを人生に混ぜ合わすことができようか。できないのである。残念で仕方ない。

 

そもそも、セミ、死んでるしなあ。せめて、生きていて、飛び立つ姿であったら、もうちょっと様になっているけれど、見た瞬間アスファルトに横たわっている姿から、というのはちょっと酷だなあ。文章を書くのは難しいなあ、と思った夏の朝だった。

 

死んでいる、ということは、終わった、ということだ。つまりは夏が終わってしまった、という意味を私に向けているのである。おいおい、私は9月末までアイデンティティをかき混ぜ続ける大学生だ、ここで終わってたまるものか、という風に反論しようとしたが、世間一般で言われている派手でハメを外せたりしちゃうあの夏というイメージは確かに終わっているかもしれないなあ、と納得しかけた。そして、もしかしたら、私はいわゆる「終わってる」人間だから、苦しみに耐えかねて終わりを求めたセミが、終わりの象徴である私にぶつかってきたのかもしれない、とも考えられてしまった。この一連の流れは、実は理にかなったことだったのかもしれない。

 

あれ、なんか落ち込むなあ。

 

ま、まあ、

 

生徒に話すときのネタになったからいいや、とポジティブに生きることにした。