Yuigo・ん・・・湿っぽい

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遊び道具を真面目に考えるのが好きです


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訪問ありがとうございます。

 

就活が始まってるみたいだし、ブログで自己分析しよう。自己分析ってやれって言われてやるもんでもないし、フレームワークに埋め込むものでもないよね。うん、だから自由に書こう。

 

昔から、遊び道具とか遊びとして摂取するモノを真面目に考えることが好きだったのかもしれない、と思うようになってきた。

 

 

 

最近は百合が好きだから、コミック百合姫を購読しているんだけど、まあ百合のことならなんでもおまかせ!というわけには行かないけれど、なかなか奥深い世界だ。百合って世間的には「女の子同士がイチャイチャする」っていう風に捉えられていて、最初はそんなものなのだろう、って思って読んでみると、そういう意味での百合も有れば、もっと深い百合があって、社会について考えさせられる百合もあった。少なくともわかったことは、「百合」というのはイコールでたった一つの意味を定義する言葉ではない、ということだ。「=」の右辺になにか決まった言葉を設定することができない、不思議な言葉である。

 

コミック百合姫2015年1月号

コミック百合姫2015年1月号

 

 

わたしはマンガに詳しいわけでもなんでもないのだが、百合姫を読んでいるとそれぞれのマンガのサイクルがとても早く、もっとゆっくりとストーリー展開してくれないかなあ、とも思うが、百合というニッチかつ専門性が求められていない(百合というのは元々「これはは百合です」と主張されていないコンテンツに見出されたから、わざわざ百合姫を読まなくても百合に会うことができるのだ)ため、百合姫は頑張らなくてはならないのだなあ、とつくづく思う。面白い!と単純にも楽しむが、百合姫が続いていくためにはどうしたらいいのだろうか、と思慮は深まる。

 

百合という言葉を通して、ジェンダーという問題に出会った。牧村朝子さんが書いた『百合のリアル』という本は、百合というタイトルを関しているものの、中身はレズビアンをはじめとしたジェンダー全体の、そして人間を区別、仲間分け、記号付けするという行為全体に対しての貴重な言及がなされている。名著だ。ここを更に入口として、ジェンダーや性、その他区別、仲間分け、記号という行為ひとつひとつが気になり始めた。

 

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 

 

そうか、ジェンダーって難しいんだ、百合って軽薄に口にしちゃいけない言葉なのかな、という反省をしようと思ったが、「わたし自身も百合は大好き!」という牧村氏のメッセージによって救われた気分になった。百合が好きなら楽しんでいいのだ。好きなものに嘘をつくことはできない。ただ、百合というものの奥になにがあるのか、ということを求めていく必要があるな、と考えていった。

 

最初は遊びのためのコンテンツだった百合が、ジェンダー、そして区別、仲間分け、記号付けという行為一般に対する疑問の入口になった。楽しいものでもあるが、真面目なものにも変わっていったのである。

 

ただ、そんな不純な入口でジェンダーを考えている自分はそれでいいのですか……?という気持ちは残っていた。なんか失礼なような。

 

そんな中、12月に発売された『ユリイカ』は、百合の現在という特集で、様々な論者が対して独自の視点から分析を加えている。百合というものを大真面目に考えていて、参考文献に「コミック百合姫」「百合男子」という記載があって、おかしくもあったが、これでも良いんだ、遊びで入っても真面目に語っていいんだ、というカタルシスが生まれた。「ユリイカ」を知っている人からしたら「ユリイカはもともとそういうモノだから」と言われそうだが、わたしにはビックリするようなものだった。

 

 

「女の子がイチャイチャする」という百合から、社会全体に一石を投じる一つのコミュニティとしての百合の間に線分が結ばれた瞬間、おもわずうおおおおおおおお、っていってしまった。感心とか感嘆とか、そういう言葉にすべきではない感情。この「うおおおおおおおおおお」は、やはりイコールで結ぶことはできない言葉であるから、このままでもいいかな、とブログを書いているような人間が言っていいのか疑問であることを書いてしまった。

 

百合からジェンダーそしてカテゴリ分け、という話をしたが、そのほかのことに関してもわたしは「遊び」だったものが真面目に考える対象になってきたような気がする。これはブログをやっているからかもしれない。ブログを書くときは自分の好きなものを書くようにしているが、それは好きなものをもう一度考え直す行為であり、つまりは、好きなものを、「遊び」のものをもう一度考え直すことにつながるのか、という風に考えることができる。

 

中学生の頃からブログを書いているが、自分の定まりきらないルーツと並行してブログがあったと考えられる。まあ元は作詩をするためのものだったけれど。ブログで失ったものも多いが、得たものもある。たとえば文章を書く事に対する億劫さが全くないことで、レポート何千字、で嫌な顔をする大学の知人が理解できなかったのも、普段から文章を書いているからだと思う。ただ、読むことはあまり進まないのがダメなところだが。

 

今はその対象がニコニコ動画を中心としたネットコミュニティに移っている。最初はただ好きで見ていたゲーム実況という世界がいつの間にかどんどん大きくなって、ついには大きなイベントとして現れた。

 


闘会議2015 ~ゲーム大会とゲーム実況の祭典~

 

ゲーム実況者に黄色い声援があるなんてびっくりした。わたしは友達のゲームを観る感覚で動画を見ていたけれど、女性にとってはそうではなく、憧れのタレントという対象なのかもしれない。いやいや、ただの実況者だぞ!と思う人が居るかもしれないが、実況者に「ただの」という枕詞はもう付いていないのだ。言ってしまえば芸能人だって仕事以外は「ただの」人だ。

 

この分野を大真面目に研究するのは、流行という意味ではもう遅いかもしれないが、これからの社会になにか意味を含んでいるのかもしれない。と考えて今日もニコニコ動画を観ています。オススメ動画って意外と作るの難しいんですよ。

 

 

 

 

オチなし。

 

 

 

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