Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

(未完成)いつまで私たちは性に囚われているのだろうか?

 

訪問ありがとうございます。最近思ったことをあまり直さず書いているので、後で変更するかもしれないです。

 

この記事は未完成なので、わかりづらいところ、不備、疑問点があるかもしれません。随時更新していく予定ですのでご了承ください。

 

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今年2015年初めからニコニコ動画ニコニコ生放送で色々とやらせてもらっている。やらせてもらって、という言い方をする必要は、かってに行動していることだからちょっと不相応かもしれない。ニコニコで活動している有名人はこぞって自分のプライバシーを上手に隠している。これは当然の方法かもしれないが、既に自分の本名を検索すると過去の活動がヒットしてしまう私は、もう隠すことはできないだろうという諦め、そして、これからは実名でネットに参画する傾向が日本においても増してくるだろう、という考えのもと、あまり対策はしていない。このブログを遡って行くと結構バレてしまうことも知っている。

 

そうやってニコニコにおいて遊んでいる中で、ネットというものが全体的に、まだまだ性という問題について無関心、本気でないんだなあということをひしひしと感じてきた。別にニコ生をしたり動画投稿したりしなくても分かってはいたことだけど、一部のひと、いや、最終的には全体にとって身動きがとりづらい社会ができているのではないか、という残念さを思いながらこの半年は遊んできた、という言い方をしたいと思う。

 

セクシャルマイノリティの話題については、私は特に専攻しているわけでもないし、なにか特別な経験を持っているわけでもない。直接の交友関係においてそういった人と知り合っているわけでもなく(もしかしたら、40人に1人にあてはまるというくらいだから、気づいていないだけかもしれない)、私は(本当はそんなことないのだけれど)問題を常に外側から、観客席からみてきたような感覚があり、それはちょっと引け目を感じてしまう。

 

そんな私に一定の考え方、わかりやすさ、そして思考の入口を与えてくれたのが、牧村朝子氏の『百合のリアル』である。ちゃんとこの記事が完成したらAmazonリンクを貼ります。

 

『百合のリアル』は、女性と結婚した女性である牧村氏が、自らの主張を、自分の言葉と簡単な物語による代弁という二つの角度から述べている新書であり、とにかく読みやすさが素晴らしいので早ければ1日で読破できてしまうという傑物である。

 

性に関する話題は、性教育を受けてきたのであれば共感してくれると思うが、真面目に聞かなければいけない、ちょっとでもエロいことを考えてしまったら恥ずかしい、という敷居の高さによって敬遠されている。というか、性教育は普段見知っているクラスで、授業として受けること自体間違っているような気がする。個人的には自分ひとりと教材という1対1によって学んだほうがもっと吸収も良かったと思う。まあ無理があるけれど。

 

『百合のリアル』は、敷居が低い。そもそも『百合のリアル』というタイトルによってものすごく軽くなっているし(恥ずかしながら私はタイトルからして百合の素晴らしさが云々だろうと誤解して意気揚々と買ったのです)、「エロ厳禁」という性教育の基本でありルールのように立ちはだかってきたものを取り払ってくれる。まったくこそこそしていないし、個人的にはよくある世間話、最近出来たあそこの喫茶店が良いとかそのスマホケース可愛いねとか、そういう感覚で話が進んでいく新鮮さがあり、これが読みやすさの理由なのだと思う。

 

性、というか愛の方向や傾向、種類は実に無数であり、よく聞くLGBTというものはその中でもわかりやすく比較的人口が多い一部を示す言葉でしかない。この中には、人間を愛さない(≠愛することはできない)という形や、自分を愛するという形もあり、牧村氏の語り口によって、それが決して特別なことではないことがわかる。

 

考えてみれば、セクシャルマイノリティがマイノリティではなくとも変ではない、ということは容易にたどり着ける思考である。たとえば、仕事に置き換えてみれば、社会を地道に支えてくれるサラリーマンがいる一方で、スターを夢見て日夜鍛錬に励むお笑い芸人や、スポーツ選手もいるし、職業の種類を考えれば枚挙に暇がない。そういうことと、性のかたちは異なるのだろうか。

 

そして、最も大切なこととして私たちはまず人間であり、まず全員が「わたし」である、ということが分かってくる。人間は誰もが自分自身、そして他人を何かしらの「カデコリー」に入れなければ気がすまない、ちょっと面倒な質を抱えている。これが社会において多くの負をもたらしてしまったような気がする。性別、人種、思想、得意不得意……それぞれにおいて、人間はなにかひとつのカテゴリーという名の箱に入らないといけない、という間違ったルールが跋扈しているのは本当に悲しいことである。牧村氏は、そんなカテゴリーの箱という考えをとっぱらい、個人が様々な傾向、趣向、種類、感覚、興味を抱くことが出来る「タグ」という思考を提案する。丁度、ニコニコ動画につけるタグと同様に、様々な自分を説明するための考え方だ。カテゴリーではどれか一方しか選択できなかったのに対し、タグはどちらもつけたって、何もつけなくてもいいし、世間に出回っていないタグを作って付けても構わない。女性である前に自分だし、男性である前にあなたである、という根本的で当たり前、それでも忘れかけてしまうことをしっかりと定着させるために、タグはポジティブな働きをしてくれるだろう。

 

私はこの本を読んだあと、ちょっとだけ、私の身体上の性と実際のそれは一致するのか?という確認をはかることにした。結果これまでどおり変わることはなかったのであるが、自分が男性であるということはあまり考えないようになった。元々、「女性はこう」「男性はこう」という性によって人間を雑に切り分ける男女論に、私は含まれていないという感覚を持ち合わせていた(共感できないし、同じ性別でも千差万別じゃないか阿呆なのか?と思っていました)うえ、男女論を持ち出す人間が、いつも偶偶その時々の嫌いな人だったのが原因だと思う。そして、男女という二択は当然正しくないし、だからといって性を測る数直線やマトリクスは存在しない。それは3次元と言われているこの社会において、人間の頭の中、内面というやつはどの数字でも示すことができない空間であるからだ。性別やそれに準ずるものは、単純にわかりやすくするための措置でしかない。

 

 

 

で、ネットの話。ネット上では、実社会でははばかれるような言葉が並んでいるし、いつしかそれを当たり前だと諦めてしまうようになってきたのは、私もくやしいところだ。これは自分を性という問題の外側にいるという誤解をしてしまっていることや、匿名だから、別人格だから言っても良いのだというちょっと考えればわかるようなものが原因になっていると、私は思っている。自分の鬱憤や溜まっているものを解消するために不特定の人間を傷つけることは当然正しいとは言えないし、この傾向が深まれば、見えない敵、自己の中で勝手に作り上げた敵に対して互いに攻撃し続けることでしか成り立たない社会が構築されてしまう。ネットははけ口だろ、という意見もあるだろうが、技術と叡智の結晶を、そんな使い方で汚してしまうのは絶対におかしなことである。

 

綺麗なものをつくりたい、とは言わないが、このまま進んでいくのは正しいことではないし、良いことでもない、と、ニコニコ動画で遊んでいるうちに思いました。という話です。

 

 

読んでくださりありがとうございました。