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Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

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雑談原理主義者の雑談


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訪問ありがとうございます。

 

私はニコ生をしている人間である。とりとめもなく、なんの目的もなく配信をしている。すでにそんなことは承知である、という方もいるかもしれないが、インターネットは誰がどこに流れ着くかわからない正に荒波と呼ぶに相応しい世界、自分を探していたら偶然ここにたどり着く中田英寿的な方もいてしかるべきなのである。だから、私は毎度自分の身分を、さぼらずに述べなければならない。

 

ニコニコ生放送というのは墓場のような場所であり、どうしようもない人間、実社会で一般的な感覚を共有しつつ生きるには至らなかった一癖も二癖もあるような配信者たちが展示されている動物園のようなものだ、そんな風に、配信を始める前も、今年になって「枠」を取るようになってからも変わらず認識している。その観念が崩されるような場面に遭遇した覚えはない。

 

そんなことはどうでもいい話なのであるが、ニコニコ生放送では配信者がそれぞれ、各々の番組名、タイトルをつけている。これも当然であるが、それぞれが相応しい、視聴者がお目当ての番組とうまく巡り合うためにつけられるものであり、今から私はこれをします、という宣言でもある。そんなタイトルでよく目にするのが、「雑談」という二文字を含んだものなのである。

 

これが当初から引っかかっていた部分であり、今回の本題となる。本題に達するまで軽い回り道をしていることにみなさんは気づいてしまったと思う。このブログはこういう形で、他人に見せる文章にも関わらず平気で道草を食うブログである。はてなブログ界のヤギとでも呼んでもらいたい。これは決して、私が支離滅裂と自称しているわけではないことは抑えて欲しい。支離滅裂というのは頭の弱った人が陥るものである。

 

なぜ「雑談」に神経を向けてしまったのか。それは雑談それ自体が持つ言葉の意味ではなく、雑談という単語を用いる側に対してである。なるほどこの人はニコニコ生放送を侮辱していたわけだ。つまりは配信をしているのにも関わらず、ニコニコ全体の雰囲気は好いていないのである。だからこういうことを宣うのだ。かなしい人である。

 

……彼らは「雑談」を、「どうでもいい話」「中身のない話」「ためにならない話」「どもベクトルでも許される話」……そういった扱いで使用している節が、どうも見受けられる。まとめてしまえば、「何を話しても良い免罪符」。このような喩えが当てはまる。はっきり言ってしまうと、これが気に入らないのである。雑談と一言銘打っておけば、俺がアタシがつまらない話をしたって、言葉と言葉の間に静寂を生んだって、そもそも殆ど話さなかったとしても、それは雑談なのであるから構わないのだ、構わないのよほっほっほっ、なんて勘違いをしているかのように聞こえてしまうし、実際彼彼女の言う雑談を摂取したところ、そういう意図しか感じなかったから私はこういうことを言ってしまうのである。

 

クオリティが低いから雑談なのか?雑談なんだから、つまらくても俺そのものが面白くないわけじゃないからねって、そういうことなのだろうか?いや、つまらない、クオリティの低い話をした時点でそれをM-1グランプリの壇上でしようとも、庭先のポチに向かって話そうとも、あなたはつまらないのだ、と、私は仮想敵に向かって言って聞かせたい。

 

私の方にも落ち度はある。そもそも何カッカしてるの?なんて言われてしまえば全部終わってしまうからお願いしますザラキの呪文だけはしまってください。まず、言葉というものは時代の移り変わりによってその意味自体を大きく変えてしまうものである。Aという意味を担当する言葉が単語Xから単語Yにバトンタッチされることは容易に起こってしまうし、流行語と呼ばれた言葉の中には流行の終了後も図太く生き残っているものもある。言葉の正解はなにか、というより、言葉は今どうなっているか、という問題視点を持ったほうが少ないコストで納得することができる。あと、別に他人がやっていることなんだからそんな真面目にならなくても、ということが言えるが、他人に首を突っ込まなかったらブログなんて書けやしないのである。私は事あるごとにブログを薦めるが、「そんなにホイホイ書けないよ」とやわらかに一蹴(一笑?)されてしまう。そんなホイホイなんて、カプセルじゃないんだから、私は私でしっかりと背筋を伸ばして書いているんですよ、とまでは言わないけれどそういう面持ちである。ブログだからこそこういうことが書けてしまうんですよ、という別解もある。

 

とにかく、彼彼女たちの「雑談」に対する扱いに納得がいかないのである。モヤモヤするのである。こういう感情は理性で抑えようともいずれ再燃する。だから私の中において、問題として取り上げなければならないと一念発起した次第なのだ。

 

言っちゃうとなんだか「雑談」という言葉が可哀想に見えて来るのである。雑談くんがいいよいいよ、大丈夫だよって笑いながら悲しい目をごまかせていない。そんなクラスの1軍にいいように使われる便利屋のようなソレが見えてしまって悲しくなってしまって手を伸ばしたくなったのだ。この気持ちは、結果としてはオウンゴールになってしまう可能性を多大にはらんでいる。いや、多くのニコニコユーザーが現在の雑談使用法を受諾している中、私のようななんの存在足りえない人間が異を唱えたところで、民主主義のルールにおいてはすでにオウンゴールをかましているのである。それでも可哀想なのである。これが狂気か?いや、狂気という言葉もどこか軽く使われているような気もする、いや、それは別の話だ。

 

ということで悩みもしたが、今から私は自分なりの「雑談」をしてみようかと思う。実は私だって雑談に対して大した意味を抱いているわけではない。あくまで雑談、しかし、メインストリームとは少し違うんですということを主張したい。私は雑談を、「結論のないもの」「ルールのないもの」「テーマのないもの」「話題がコロコロ変わってもいいもの」「オチがなくっても文句はいえないもの」「でもなんだか終わった時にそれ以前とは違う感情を生むもの」と捉えている。中身はなくっても意味はあるのだ、ということを強く言いたい。そういう雑談を、今からします。

 

 

 

雑談

 

半年に一回実家に帰るという風習がある。実家は田舎というわけでも都会というわけでもなく、なんの変哲もないところだし、特に話すことも、手続き的なこともない。要件というのはこの時代、メールだのを使えば事足りてしまうので、1泊か2泊かそれくらい、なんの目的もなく、帰ってもなにもすることなく過ごすために実家に帰る。正月はたらふく食わせてもらうという目的があったかもしれない。しかし、その反対、夏となるともう本当に何もなくなってくる。しかし帰る。

 

最近時間感覚がおかしくなっていて、実家に帰ってもそれまでと同じように深夜に目覚めてしまった。藤原基央だったらベルトにラジオを結ぶような時間帯である。ドのつく深夜だ。本当になにもやることがなかったから、高校時代お世話になった日本史の資料集を引っ張り出して眺めることにした。受験のことを早くから考えていたから、もう殆ど教員の話を聞くことはなく勉強していた人間だった。塾にも予備校にも行ったことがなかったため、自分で探した参考書や人を頼りにしていた。だから学校の勉強は楽しくなかった。なぜ毎週同じ時間に同じ教科を勉強しなければならないのか。その時やりたいと思ったものを1日中でもやらせて欲しい、と常日頃から思っていたので、本当に合わなかった。

 

そんな自分にとって日本史の資料集というのは本当に頼りになるものだった。そこには、受験問題に対しての答えがすべて記載されていた。もちろん、そっくりそのまま書かれているわけではないが、探せばちゃんと書いてある。今考えてみれば歴史の学習に関しては資料集だけあれば事足りるという説に関しても頷けるものである。

 

そんなことをしているうちにいつの間にか時間は進み空が白んでくる。空が開かれる瞬間に立ち会うというのは、嬉しくも悲しくもない、単純な感情のベクトルとは全く違う種類の心情に襲われる。人間がまだ分析しきれてないタイプのものであると言える。そんなことを適当に考えて、何かしらの着地点を探していると、突然としてテレビが点いた。我が家にある32型・ソニーが誇るプラズマテレビブラビア」が目を覚ましたのである。

 

なぜこんなにも我が家のブラビアは年寄りの如く早起きなのか。これにはれっきとした理由が存在する。

 

私が高校生だったときに遡る。そこまで昔ではないが、受験勉強をしている時期は朝早くに起きて勉強するようにしていた。夜ふかしして蛍雪を頼りに……なんていうスタイルはザ・受験生のような恥ずかしさがあったのであまりしたくなかったからその逆に朝を利用しようと考えた。とにかく人と同じことをしたくなかったという思いはこのころから強くなっていたからである。

 

そんな私を起こすのが、朝5時に起動設定をしているブラビアだった。チャンネルはかならずNHK総合になるように決め、おはよう日本のBGMが体に馴染んでくる。これは民法のニュース番組では成し得ない技である。振り返ってみれば私は大概4時台に覚醒しきっていたので、ブラビアに助けられることは殆どなかったのだが、思えば私の高校生時代を象徴していたものは、学校にあるものでも制服でも文房具でもなく茶の間に構えるブラビアだったのかもしれない。そう考えると虚しくも聞こえかねない学校生活だが個人的にはそう悪いものでもなかった。もちろん平日にのみ設定しているタイマーなので、休日の眠気を台無しにする、ということにはならない。

 

だいたい6時あたりには朝の問題演習と朝食、諸々の支度を終え学校に向かう。まるで朝練に向かう部活熱中学生の様相を見せているが、そのためではなくやはり受験勉強である。朝の教室にはやはり誰もいない。授業が始まるまでの1時間と少しをまたも演習問題、もしくは宿題のための時間にしておく。この1時間とすこしがかなり集中のために有益な時間であり、一番やらなればならないことをするのに適している。時にはイラストや詩の仕上げにもこの時間は要された。とにかく、一番頭が回ってくれる時間という感覚があった。

 

ふと思えば最近は夜ふかしをしているばかりである。翌日が休日とわかると狂ったように朝日を見るまで享楽に酔いしれている自分を省みて少し恥ずかしくなってしまった。趣味としてであるがモノ(作品)づくりをしている人間としては、やはり自分が集中できる時間帯をキープすることに尽力すべきである。思わぬところで大きな反省点が見つかってしまった。

 

そんなことは別の話であり、この話で私が一番伝えたいことは「学生時代に設定していたオン/オフタイマーが、今も全く変わらないまま残っている」という事実である。

 

思えば私の家族は、電化製品に対して詳しくもないし興味もない人達である。家電の設定や管理は自然と自分が担うようになっていた。私もこの部品がどうでとか、ラジオを分解して構造を確認したとかいう知識や経験を持っているわけではなく、ただ、人並みかそれ以上に興味関心を抱いているというだけである。そういえば実家のエアコンはとても古い型であった。色が黒い、ということだけいえば分かってくれると思う。最近のエアコンはだいたい白い。

 

テレビ、ブラビアに関しても自分が設定を行っていた。我が家の茶の間を飾るのはスポーツ番組が主であったため、動きに強い設定や色をカスタマイズしていく。自分が音楽に興味を持ち出したあたりからイコライザー設定における低音の数値が大きくなり、東日本大震災があったときから節電設定に変更したりした記憶があり、テレビの設定という入口から自分や家庭の経緯を振り返ることができる、書いていて言うのもアレだが、これには驚いた。

 

タイマーの設定がそのままになっているということは、自分が家を出て一人暮らしを始めてからはブラビアには何の設定も施されていない、ということになる。ここまで書いたことを加味すれば自然な流れであるが、改めてその事実を確認すると感慨深いところもほんの少しだけ存在している。家庭内における話し相手がひとり減ってしまったことで、母はそれまで以上にテレビ番組を録画するようになった。ハードディスクには大量の番組が録画されており、容量を圧迫しないように低画質で保存されている。さらに、保存されている映像がどれも最近のものであることから、見終わったものを頻繁に削除しているようだ。いや、そうしないとパンパンになってしまうほどのペースであると言ったほうが適切である。

 

んー、今度大容量の外付けHDDや永久保存用のブルーレイ・ディスクでも買って帰ることにしよう。久しぶりにブログを書いていたら、我ながらいいことを思いついた。やはりブログの効能は油断ならないものである。

 

淡々と繰り返していたような日常にもしっかりと記憶は残されており、そこには意味がある。いや、やはり意味というものは存在しないのかもしれない。行動や感情に対して、明確な意味や理由が隠れているのは物語、フィクションの中に限定されたことである。小説の中で殺人を犯した人間が、「いや、なんとなく」などと供述したらそれは話として成立しない。しかし、現実の中には往々として「いや、なんとなく」や、それに並ぶものとして「むしゃくしゃしてやった」という理由ではない理由が語られている。現実に理由はない。意味もない。だからこうしたんだ、とはっきり分かることはむしろ稀である。それゆえに人間の矢印がよく見える物語は人々を惹きつける。それを探すのが物語の醍醐味である。いつしか、物語では満足できなくなった私たちは、理由なんてなかった現実に対しても、物語のように納得できる意味を無理矢理にでも探し始めた。意味がないと納得はできないからである。その意味が真実でなかったとしても、本当は「いや、なんとなく」だったとしても、我々は意味をさがす(つくる)ことで満足できるのだ。

 

この話に意味はありません。

 

雑談終わり

 

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星野源雑談集1

星野源雑談集1

 

 

 

 

読んでくださりありがとうございました。


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