【雑】日記
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大学生の生活というのは不規則になることを容認する、という生活なのではないのか、と認めざるをえない、というのが最近の心境である。不定期に自室を掃除しなければならなくなり、その度に、決まった時間にすることができればもっと有意義な生活を作ることが出来るのに、なぜできないのか、という自問自答に入り込み、結局、そんな出来た人間のような生き方をするのは無理なんだ、と乾いた笑いを添えてあきらめを表明することは、もはや様式美のようなものと化している。
とくに最近になると、アルバイトやその他もろもろの予定によって、早い時間に自室に戻る、ということができなくなってしまっているため、私が出来ることは、専ら、散らかった自室をアウトにならない程度に(自己裁量)掃除をする、ということくらいである。しかし、それでも、教科書が地べたに転がっていることは発生し、私を落ち込ませているのである。インテリアや場の効果、色彩といったキーワードには目がないのだが、自分のこととなるとまたそれは別の話になってしまう。経済的な問題がそこには立ちはだかるのだ。
あと30分ほどで、また部屋をでなくてはならない。今日も、そんなに早くに家には帰れない。この部屋、一人暮らしの部屋に関しても、あまり高い質のものは求めてはおらず、学校からそれなりに近い距離であること、家賃が安いこと、騒音に悩まされないこと、そのくらいの理由でしか選ばなかった。結局、知人の部屋の、一回り安いアパートに落ち着くことになった。先約をしていた受験生が、もしも受かっていたら、私は別の部屋に住むことになっていたらしい。パソコンに疎い不動産屋の奥様に代わって、偶然居合わせていた客である私が受験速報を調べ上げ、50人ほどの、名も知らない受験生の運命の一端を預かったことになり、そのお駄賃として私はクオカードを奥様から譲り受けた。大した額ではないだろう、と思い封筒を開けると、時給に換算すれば危ない商売でもしたんじゃないか、と思わせるほどの額であった。しばらくの間私の生活がコンビニによって支えられるようになったのは言うまでもない。
そんな自室の、掃除の行き渡らない状況に似ているのか、私の生活というのはどこかはっきりしない、リズムのない生活になっていると言っていいだろう。様々な事柄に手を出していて、なにか集中して勉強をしたり読書をしたり、そんな大切と思われる時間はさほど取れないまま一週間というチェックポイントをいつの間にか通過してしまい、感情の煮え切らない生活が続いている。定住しているコミュニティに対しても一定の不満があり、そこに対しては自らのアイデアや行動によって処方を試みるのが最も望まれているのであるが、その時間がしっかりと取れない、または、他のことを休ませて、そこに集中しようという決断が出来ない、と言い換えてもいいだろう。週2回と確信していたアルバイトに関しても、結局週に4,5日出ている週もあり、よくわからなくなっている。前の職場に比べたら天国に近い職場環境であり、一回の出勤も短く、日付が変わる前に帰ることが出来るのであるが、そろそろ、私の要望と職場のルールのあいだに摩擦が表面化していくだろう、そんな危惧は絶えない。
雨が降ってきたとか、日本が負けたとか、SNSが騒がしくなっているとき、私はどうしてかこうしてか、寝ていることが多い。起きてから過去のログを見返し、ああ、そうだったのですか、と話を合わせる。餓鬼ではないので、そんなことはどうでもいいとか、私は見てませんでしたー、とか、どうでもいい自己主張はしないようにしている。餓鬼というのは本当にこのようなことをしているので困る。何かを貶さないと自分の愛するものを主張できないのだ。相対評価しかできないということである。
大きなニュースが会った時、大学の広場で何かが催されているとき、私はそこにいないということが、最近になってとくに顕著になっている。感受性豊かなひとというのは、こうした偶然の事象をなにか自らに舞い込むだろう運命的なことがらのサインとして受け止めるようだが、私にとっては、このような出来事はいかなる予言につながるのだろうか、このことによって私はなにか、新しい行動様式、新しいガンビット(FF12参照)を組み立てる必要があるのだろうか、という物思いにふけっていたら、また無駄に時間は過ぎていってしまうのである。悲しいいことだ。
自室では、雨は止んだのであるが、時間差でもって雨の匂いが充満している。この現象をこねくり回せば、私はタイムスリップのひとつやふたつ、容易に達成しうるのではないだろうか。ただの愚痴になってしまった日記を、これで閉じることにする。
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