Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

自分のブログを見返してみた

 

訪問ありがとうございます。

 

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自分のブログを見返してみました。とはいっても数記事だけなんですが、全部を読む前に、回る前に、もういいです、という風になってしまいました。

 

いつもの癖で、だんだんと丁寧語が無くなります。苦手な方はごめんなさい。何も考えていませんでした。

   

 

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2014年6月くらいからスタート

開設した時期というのはもっと早かったのですが、本格的に書こう!という風になったのは昨年の6月くらいからでした。学生団体の中で関わっていた案件がいくつか同時に終了の目処が立った結果、ちょっと余裕が生まれたので、せっかく持っているブログだし、いっちょ習慣づけますか、という感じでした。

ブログ自体は以前から書いていたもので、最初は中学生のときにteacup、高校生のときにAmeba、そして大学に入って途中から「Amebaってなんか色々ダサいな」と感じたため(あと、Amebaピグなどブログ以外のコンテンツを全く利用していなかったのもあります)、ブログ!って感じがするはてなに移りましょう、と特にそれ以上は何も考えずやってみることにしたのでした。はてなに移るまでは、過去記事でも何回か書いている自分の作詩をネットに残しておきたかった(紙だとどっか行きそうだし捨てそうだし)ので、それを残す場所として使っていました。他の作詩ブログを見ても全然共感出来なかったのは強い思い出です(だいたいみつをテイストか携帯小説の真似事だった記憶がある)。作詩ってのがまた中二病がドーン!という重みを誇っているのですが、今も続いてしまっているのですから笑えません。笑った瞬間自分の色々な面を否定することになってしまうという縛りもあります。

6月から始めたのはブログ!という感じのものを自分の中で求めた結果、という感じがします。あえて自分で記事をいくつかピックアップして語ったりはしないのですが、みなさんもアトランダムに覗いてあーなるほど、と思ってください。ちなみに、ニコニコで色々させてもらってからは自分の個人情報をほぼ出していないのですが、ブログのほうはそれがユルッユルです。見てもさらりと流してください。色々分かってしまうと思われます。はっきりと。

 

偏ったブログ観がそのまま出た感じ

参考にしたのははてなブログの人気記事。はてなで人気を博すのはいわゆる「はてな村」という狭い狭い内輪モメ(という認識で合ってるのか)の類いか、TwitterでRTされている長めのツイートをブログという場に移り、無制限の文字数に引き伸ばしたもの、という認識をしていました。なんというか、「ごく普通、常識的なことをやたら小難しく回りくどく書けばいいんじゃないか?」という感覚だったと思います。1年前の心境ってあんまり覚えてないですね。

しかし、こういうエッセイ的なことというのは毎日書こうと思っても書けるものではありません。結果として23記事を残したその月(文字数や画像にも気を使っていました)、だいたい平日は毎日書いたぞというペースを守るために、ライフハックめいたノリの記事も混ぜていくことにしました。本の紹介、当時ハマり始めていた環境音(暖炉の音や波風、地下鉄など作業用BGMに代わる集中ツール)の紹介など、Facebookで時折回ってきそうなテイストにもチャレンジしてみました。実際やってみて、やはりこれを仕事にするという難しさの一片を思い知りました。なんとなくは近づけられるのですが、やはり細部にこだわらないといけないことと、継続的に書くという息苦しさがあります。面白いもの、すごいものに、かなりのハイペースで出会わなければこういった「紹介」「オススメ」記事は書けないのです。その上、仕事にしたらあんまり面白くないことも面白く紹介、キュレーションしなくてはならないこともある。ああ、仕事だなあと強く感じます。

あとは継続している作詩も混ぜてみました。書くたびに何で作詩なんだろう、何で作詩を残さなくてはいけないのか自問自答するのですが、結果として未だ答えは出ていません。

 

とにかく「自分」を焼き付けるためのブログ

結果としてこのブログはなにを主題としているのか全くわからないものになったのですが、そのとき、私はブログを書く自分なりの意味を見つけました。それは「明日そして未来にはきっと歪んで残ってしまう自分の記憶を、残酷にも克明に残すため」。その出来事や出会いなどそれら自体が存在したことに関しては、覚えていなかったり覚えていたりします。ただ、そこで振り返ると変わってしまうものが、自分の感情です。

「今思い返せばいい思い出だった」というのがよくある例ですが、この言葉、個人的には好きになれません。自分がその時思ったマイナス(プラス)の感情が、時間という介入によって尊重されなくなってしまう気がするのです。当時そのように思った自分自身に対して申し訳なさを感じ、失礼にも思います。だから、その時の感情は大切にしたい。こういう願望を、完璧ではないですが残してしまうのがブログという道具なのではないか、と感じています。いや日記でもいいのですが、書く負担と画像やリンク、動画を残せるといった面で私はこっちを優先したという感じ。あと、日記は毎日書かないといけないプレッシャーを感じる上、毎日書かないと効き目がないようにも思えます。ブログはなんだか知らないけど許される気がする。なぜか。

どっかの誰かが言っていた「自分の様々な面をHDDに保存する」というのがしっくりくるのではないでしょうか。この言葉だけ覚えていれば今日の記事に意味はない気さえします。

 

今見返すと、薄い

チラチラと見返したんですが、薄いですね。内容が、ということばっかり感じます。薄いというのがどんどんやってくるから、それ以外の感想が出る隙がないのです。あと意識の高さを隠そうとしてるんだけど出ちゃってるのが腹立つ。やっぱ意識高い人苦手だわ。

なぜ内容が薄いのか、それは単に取材してないからだと推測します。取材、というかしっかり裏を取るとか数字に頼るとか何かしらの証拠を出すとか。プレゼンテーションや論理的会話の基本でもあるPREP(会話を順にPoint、Reason、Evidenceと話し、そしてPointを再度繰り返して締めくくるとわかりやすくなる、というもの)におけるEが無い文章になっている気がする。なっている。だから、たとえ正しいことであってもなんか腑に落ちなかったり、その理論に対して反対している人が耳を傾けないような文章になってしまうのだと思う。

まあ、それをする気があったのかというと無い。ブログだし、というそれを言っちゃあお仕舞いというのが一番の理由であるが、まずは書くペースを安定させようというのが優先的な目標だったため、ひとつひとつのものに対して力が入っていなかった、ということなのだろうか。

こうやって書いていると、ペースを守るということが大変だということが改めて分かる。私が生理的に受け付けていないものの一つにyoutuberがあるのだが、彼らは人気を得ている割には低いクオリティではあるがハイペースで動画を投稿している。一部を除いてはほぼほぼ自分だけの手によってアイデアの発想から投稿までを行っているにも関わらず、だ。もちろん様々な作業形態があることは予測できるが、まあああいうクオリティになっても、沢山の動画を出すことを求められているから自然な形なのかな、とも思えてきた。もっとも、「彼らは低いクオリティではあるがハイペースな動画を上げる」ことしかできないかもしれないが。その逆が出来ないから消極的にこうなったのかもしれないが。

とにかく、沢山文章を残すのは大変なことだ!というシンプルな結論を得たのが、この時期である。結果として6月のようなペースを守れることはなく、翌月からのエントリーは、15回、20回、22回、7回、17回という風に減少傾向にある。数の水増しみたいな記事もでてきている。12月は32回となぜか日数を超えているのだが、これも実質的な水増しと、年末で暇だったことから来ているため信用ならない。かと言って6月は真っ当に書いたのか、という新たな疑問も出てきてキリがない。

 

水増しとは

水増しというのは主にゲーム動画を公開しました、というエントリーである。これは中身がない。記事の数を増やしたかったのと、ブログを継続するのがきつくなってきた自分に与えた特別ルールのようなものである。甘い。動画の中身は惰性である。自分でやってても面白くねーなーというのが正直なところ。ちなみに、ニコニコに動画を上げる際というか、もう一切「実況」というネーミングは使用しないことにしている。実況と言ってしまって自分が考えなしに名乗ってしまうと、文化放送ライオンズナイターの素晴らしきアナウンサー陣に失礼だと感じるため。他の人がどうこうに関してはどうでもいいけど。

 

またペース上げたいですね

平日は毎日、というわけには行かないが、程よいペースでブログを書いていきたい。程よいペースと誤魔化したのは、具体的な間隔を書いてしまうとプレッシャーになるし、高確率で嘘になってしまうから。別に責任なんてないから嘘ついたってどうでもいいのだけど、言ったことと違うというのはシンプルにバツが悪い。

ブログを定期的に書いている、エントリーをしている時期というのは、良い効果としては、考える習慣がつく。そして、考えるにしてもブログ口調で考える(もちろん声には出さない)ので、それなりに整った形で考えを組み立てるクセができる。これは良い事だと思う。ブログの習慣がなくなってくると、単純に「良い・悪い」という結論を急ぐようになってしまう。思考することから逃げている感じだ。悪質なコメンテーターは、それを「ズバッと世の中に切り込む」ことだとすり替えている。ただ考えずに、感覚で善悪の判断や選択をしているだけなのに。考えることによって、第一印象と答えが変わってしまうことを楽しめるようになるのが、個人的には「調子の良い」ときである。だからブログは書いていきたい。

なお、ブログ、というのは自分が書いているブログで、世の中には色んなブログがあるのでそれをいちいちジャンル分けしていくのは辛い。だから、ここでブログというのは自分のブログである。

それを最初に書け。

 

最後に

地味にブログタイトル変えました。

 

 

 

 

読んでくださりありがとうございました。