Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

モノを沢山捨てたけども、決して「断捨離」ではないよ

 

こんにちは。ブログを書くときは、特に何も考えず始め、書き終わったらそのあとにタイトルを付けています。だから読みにくいんだろうな。

 

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最近の楽しみは、「ニチレイプレゼンツ」オードリーのオールナイトニッポン内のコーナーで「阿川佐和子さんが書きそうなエッセイ」というネタハガキのシリーズです。毎回毎回心待ちにして、いつ来るんだ、いつ来るんだとカタカタ震えています。いや、だいたい終盤のコーナーだからそこまでカタカタする必要はないんだけど。

ちなみに阿川佐和子さんのエッセイは読んだことはありません。これきっかけで読んでみて、ほんとだ!デレクジーターのネタハガキと同じテイストだ!と感動するという読み方もなんだか違うような失礼なような気がする。これたぶん読まないパターンです。

 

www.allnightnippon.com

 

ラジオを聴きながら作業をすることが日課として定着してきて、今年に入ってから4月くらいまで、生きるために最低限の家事以外をすっかり無視していたので、思い立って少しずつ家を整理することにしました。今のボロアパートにももう1年もいない筈だし、タイミングかなあということで。いつでもやっといて全然問題ないレベルのことなんだけど、それまでは全く定着していなかった。

とにかく、多かったのは紙。昔の講義のレジュメや自分で印刷したプレゼン資料なんかはもちろん、大学外に向けて積極的に活動してた際の書類なんかをほぼそのまま残していたので、いつしか本棚の半分を埋め尽くす事態に発展していました。

プレゼンをしたりワークショップをした場合は、例外がなければその反応を正方形の付箋に書いてもらっていたので、それがビニール袋の中に大量に眠っていました。本棚の上にあったプリンターと同じくらいの体積に膨れ上がっていました。

もちろん、一つ一つにメッセージが記されているのですが、これを読み始めると大変なことになってしまう、夜を超えて太陽を出迎えることになってしまうという危機感を抱いたので、読まずにゴミ袋に流し込みました。

 

ひとたび捨て始めると止まらない。いや、止まってはいけない。止まったらまたこれを繰り返さないといけないんだぞ、ということで、ほかの掃除は後にして本棚だけはなんとかしようと整理をこなしました。

これは共感されないと思いますが、いわゆる「思い出系」のモノもほぼさっぱり捨ててしまいました。よほど手が込んでいる、自分のために時間をかけてくれた寄せ書きの類は除いて、(整理をしている今この瞬間から)今後読みかえすことは無いだろうなあと判断したモノ、見返してもなんのこっちゃ分からなかったモノ、病気の時期と被っていたモノなども成仏してもらうことにしました。

中には小学校や中学校、それと勿論高校のときのモノもあり、どうして実家から持ってこようと思ったのか、過去の自分に問いたいくらいでした。実際ホコリまみれになって全く気にも留めていなかったのに。その発展で、卒業アルバムは実家にあるけどよーく考えたら別に要らないんじゃないかと思いました。

あんまり思い出に執着がないというか、もしかしたら、その事実というよりも、自分のアタマに残っている一部分がひん曲がって残ってしまった妄想にも似た記憶の方が大事だと思っているのかもしれません。

忘れたら忘れたで、そこまでの記憶でもなかったんだろうと諦めがつきますし、そもそも学校生活にはそこまで良かった感覚がないというか、勿論1軍グループでワイワイしていたわけでもないし、自分は2軍グループに相応しい人間だと割り切ってそれなりの身内間を作ることもできなかった1.5軍の学生としてずっと過ごしてきた、過ごすしかなかったので、ハッキリとつまらないと思わなければ、その反対もなく、常に良く分からない、洗練された「どちらともいえない」を抱えていたので、卒業アルバムを眺めても特段感慨に浸ることもない、ということなんだと思います。ある意味最も孤独だったなあとも感じます。

自分がどこのグループにいるか全く分からないから、今になって同窓会や似たようなイベントが耳に入っても興味が出にくいというかむしろちょっと怖くなってしまって、成人式以後は関連する連絡先をさっぱりきれいにしてしまったので、これからも縁がないんだろうなあと思います。そういえば、成人式で先に書いた「どちらともいえない」が体のそこから突然逆流して、今でも理解できない訳の分からない感情に叩きつけられたのを思い出しました。

ちなみに、小中高とアルバムの空白ページにメッセージを書いてもらったことはありませんでした。高校を卒業するときはそういう習慣を知っていたんですが、自分という人間のために書いてもらうということがすごく申し訳なくて知らないフリをしていました。数人に自分が書いた記憶は微かに残っているんだけど。

もう卒業アルバム捨てて良いな。今度帰ったらガッツリ葬ってやろう。今後自分がおしゃれイズムに呼ばれることは無いからね。冗談。

もしも読みたくなったら誰かに会って見せてもらえばいいんだ。誰かに会う約束を取り付けてまでも見たい!というくらいに欲求が高まるかは知らないけど。

 

話がだいぶ脱線しましたが、こうやってモノを一気に捨てています!なんて話をすると、今はほとんどの人が決まってこう返します。

「お、流行りの断捨離ですか?」と。

こう言われてしまうと、別に自分は断捨離をしているわけではないんだ、とちょっとムッとしてしまうと思います。

私は部屋の環境を向上させるために必要のないモノを勢いよく捨てている、という行為をしていると考えており、決して「断捨離」をしよう、という決意のもとこの行動をしているのではありません。

それゆえ、流行りとして断捨離をしているのではない、と言いたいのです。捨てたいから捨ててるの。こういう考え方の人はそんなに少なくはないと願っています。

「断捨離」も「ミニマリスト」なんかもそうだと思うんですが、もともとそれに当たる生き方をしていた人はそこそこ存在していたはずなんですが、わざわざ造語でもって流行(のハリボテ)をつくるのはなんだかムズ痒いですね。

頭では、こうやって流行を作るのがビジネスなんだということは理解できるんですが、どうしても感覚の視点からでは共感できません。ちょっと前ですが「婚活(亜種の○○活含め)」や「草食男子(これも発展する○○男子、女子がいっぱいありますね)」なんかのフレーズも全然納得いきません。

草食男子って奥手だとかなんなら童貞のことなんだからその言葉でいいじゃん、カッコつけんな馬ー鹿って今でも言ってます。そんな自分が一番ダサい。こうやって頑固で煙たがられる存在になっていくんでしょうね。元気で人気のあるお爺ちゃんって大体新しいものへの理解があるし、凝り固まってはいけないなあとも同時に感じています。常に自省。