Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

私は「嫌い」で自分が構成されています

 

こんにちは。

 

いつも通りかもしれませんが、今日はいつもより自分語りです。

 

フリー写真 渓谷と落雷の風景http://gahag.net/img/201608/24s/gahag-0118602618-1.jpg

 

「嫌いなもの」の方が圧倒的に多い

 

このブログも最近はそういう呈そうを躊躇いなく示すようになってしまったけれど、私には嫌いなものが沢山ある。

 

最近になって(一般的な感覚では)ネガティブな記事を沢山書くようになったけれど、元々私はそういう人間だし、好きなものよりも嫌いなものを見付ける方が早い。揚げ足取りにならないように気を付けてはいるけど。

 

大学生の最初の方、まだ意識が高かったころはそういう内心をあまり出さないようにしていたんだけど、やっぱり我慢できなくて今に至っている。

 

子供の時から嫌いなものが多かった

 

他人にとっては嫌い、というよりは「興味のないもの」として終わっていく、無いものとして過ぎ去っていくようなものであっても、そこに槍を投げ込みたくなる性格で、勝手にイライラしては勝手に疲れていく、という無駄を繰り返してきた。

 

その矛先は様々なところに向かい、社会的なニュースにコメンテーターのような偉そうな姿勢を取ったり、身近な事情、クラスだったり、兎に角教師が嫌いだったりと不機嫌な子供だった。今も不機嫌な子供かもしれない。例として、エンタメに絞って考えてみる。

 

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小学校の時はエンタの神様が大嫌いだった。子供の目で見てもすぐわかるような短絡的な笑わせ方を披露する一発屋予備軍が許せなかったし、この人たちはこの一発(に届かないくらいの芸人もいたけど)が終わった後、どうやって生活するつもりなんだろう、という彼らの人生計画の脆弱さにも苛立っていた。テレビっ子の自覚はあっても、ここは通らなかった。影響として、スリムクラブサバンナ高橋がエンタ以外で頭角を現してもピンと来なかったのは悔しい思い出だった。

 

 

中学生から高校生にかけてとにかく憎かったのが、「ヘキサゴンⅡ」の存在である。クラスの話したこともない女子がヘキサゴンのグッズを持っていたことで、何も知らない彼女のことをとても汚いものとして考えるようになった。たぶん、こういう感情は相手にも何となく伝わっていて、私自身も相応に嫌われていたはずだ。

 

ヘキサゴンの何がどう嫌いなのかは、長くなるし、ほかの嫌い派と遜色ないと思うので省略するが、何よりも、「自分の番組を飛び出してしゃしゃり出てくる」というのは許せなかった。

 

この「しゃしゃり出てくるのがムカつく」という経験は、今の、マンガアニメゲーム他のファンが、自分たちのテリトリーをはみ出してはしゃぎ出す、という時折見られる光景に対して許せない感情を抱くこととつながっているかもしれない。

 

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あとは、子供の時から通して現在も、テレビドラマというのがあまり馴染めない。あんまり理由が明確に出来ないから書きようがないんだけど、特に日テレ系の土曜9時台のドラマが本当に嫌いで、小学生の時から女王の教室「ごくせん」「マイボスマイヒーロー」喰いタン野ブタをプロデュースなど毎度毎度勝手に苦汁を飲み込んだような気持ちになっていた。この枠に限らず無関心を通り越して嫌いなドラマは沢山あった。勿論中身は全然観ていないが、偶然チャンネルを回して観てしまったとき、家に1台のテレビで親が観ているとき、CMや番宣で観かけてしまったときなど、不意にチクチクされた経験は何度もあった。

 

嫌いな割にはドラマのタイトルをよく覚えているんだね、とか思うかもしれないが、そういうことに対してはこういう記事を書いたのでどうぞ。

 

 

m4usta13ng.hatenablog.com

 

 

他にも、このブログで書いていることを含め、嫌いなものは山のようにある。男女問わずアイドルが大嫌いだし、アニメのノリにも鳥肌が立ってしまう。

 

私は子供の頃、どういう切欠だったか忘れてしまったけど沢山詩を書いていたので、自分のが出来る、とかそういう感情じゃないんだけど、テレビで流れる曲の詩に対しては厳しい構えだった。

 

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J-POPと主張しているだけでその実態はお遊戯会にも満たない、そんな詩は概して、比喩の楽しさを一切排除しているというか、こうも直接モノを言って、恥ずかしさとか、奥ゆかしさとか、オシャレさとか、そういう遊び心を持っていないような詩を見付けるたびに、蛇だか蠍(サソリ)だかの毒に冒されたような気分になってしまっていた。

 

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テレビ的な音楽のカウンターとして成立しているボーカロイドに代表されるところの詩も、それはそれで嫌いだった。あそこの詩は、それこそニコニコ動画に馴染むような単語をわざとらしく入れてみたり、とにかく印象に残そうとヒロイン的な存在を殺したり消滅させたり(これを「命ころがし」と名付けた)、今でこそ「炎上商法」というものが一般的な方法論として浸透しているが、そのハシリと言っていいだろう。これも違和感を隠せなかった。

 

という訳で、好きなものよりも圧倒的に嫌いなものが多い。

 

 

 

まず自分が好きではない

 

どうして嫌いなものが多いのか、というと、それは好きなものが少ない、ということである。当たり前の話だけど。

 

なんで好きなものが少ないのか、ということを考えると、どうやら「好きなものを主張するのが苦手」だということが、やっとのことで最近分かってきた。

 

じゃあなんで好きなものを言うのが苦手なのか。それは、そもそも自分自身という存在があんまり好きではないから、「こんな人間が好きなものを言っていいのだろうか」という申し訳なさが湧き出てくるので、好きなものをいうことに対する罪悪感というのが存在している。

 

小学生からわたって今に至るまで、自分は嫌われ者だということが分かっている。まあ地球上をくまなく探せば5人くらいは「そんなことないよ!」と(本心ではなく)言ってくれる優しい人がいるかもしれないが、過半数から嫌がられてる自信がある。確固たる自信である。

 

だから、私のような人間が好きなものとして何かをレコメンドしたところで、逆効果になってしまうということは、(実際明白ではないんだけど、私の視点からすると)明白なのである。だから好きという感情を表明することを避けてきた。

 

そのうち、表明以前に、好きだと思うことも、やめておこうということになった。そういうことなんだと思う。

 

 

 

「好きなものの数>嫌いなものの数」はイコール正義なのか?

 

これだって裏を撮ったわけでもないんだけど、世間では、ポジティブであることが正しいこと、喜ばしいこととして扱われているように見える。

 

流石に、さながら松岡修造のように、というとそれは行き過ぎ、と思う人も出てくるが、前向きで、嫌いなものよりも好きなものが多いよ!というのは本当に良いことと認めていいのか、とも考えている。

 

テレビ・ラジオ・雑誌をはじめとして、世に出てくる人は「好き」をエネルギーにして成功している、それか頑張っているという状態で登場する。だから、自然とそういう姿勢の方がいいのかな、と私は揺り動かされる。

 

とはいっても、そりゃあいい感じに人生を歩んでいるんだからそういうメディアの前に出られるのであって、実際に世の中の見えづらいところまで首を突っ込んでみたら、嫌い主体の人間だってそこそこいる可能性はある。多くいるからそれで良い、ということとは違うけど。

 

この問いを考え出した瞬間かぐっと書きづらくなってしまった。一回下書き保存してみたんだけど全然まとまらない。たぶん、これは、自分で考えているだけでは何も進展しないという状態であり、とりあえずはちょっと間をあけるしかないようだ。

 

 

 

・・・実は、こういう問題は概して「要はバランス」と言ってしまえば片付くのだが、それは思考の放棄というか、言葉に寄り掛かっていることになってしまう。

 

しかし、「要はバランス」という言葉の力は強大で、今冗談半分で書いたこの瞬間に、ああやっぱりバランスなのかなあ、と吸い込まれそうになっているのは他ならぬ私だったりする。