こんにちは。
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プロ野球はレギュラーシーズンが終わって、実は最近まで野球場でアルバイトに励んでいたのですがそこでの勤務も一旦終了。少しの空白の後、新しい職場に移ることになり、また0から仕事を覚えていく。どういうバイトかは別にして、自分らしくない場所なのでソワソワしている。そんなこと言ったら個別指導塾が一番似合わない場所だったんだけど。
ブログは「嫌い」の表明に適している場所?
今回の話に関して。精神的にジェットコースター的な変化があったのち、私は自分を偽らないように、というか、世の中の雰囲気や他人の言説を真に受けて落ち込まないように、自分を優先して守ることを目的にして、積極的に苦手なことや嫌いなことを外側に表現することにしている。そういう場所としてブログが一番役に立っているというのが現状だ。
いくらそう決めたところで、あまり胸の内から交流していない他人に対してあれが嫌いだ、これは訳わからんというのはどう考えたって自殺行為であるから、ここが都合のいい場所になる。
それでいて、Twitterに書くと間違いなく誤解される、自分の意図通りに受け止められることは、あのフォーマットでは有り得ないし、やはり洞穴のようなここに書くことが最も適している。それでも思い通りに言葉が伝わることは有り得ないし、炎上案件の事例に触れるたびに、人間は文字だけで交流することは不可能に近い、ということを痛感してきている。
そもそもを言えば、他人に自分の意図が伝わること自体が自惚れ、そんな現実という滴が、ぴちょんぴちょんと骨に染み込んでいるような感覚に襲われることにも、もう慣れてきた。
とはいっても、最早そんなことは、現代に生きる人は肌感覚で理解しているからこれ以上は深入りしないでおいて、今回は、私が何かに対して「嫌い」と言う際のルールというか、スタンスというか、そういうものをメモ的に残していこうと思っている。
余談。ルールという言葉は何となく違うかもしれない。モットーでもない。これらの単語を使うと、あたかも私がその「自分ルール」に対して縛られている、自分から縛り付けているかのようなことになってしまうが、事実としてそんなことはない。「こういう姿勢でいよう」程度にしか考えていないため、破ったところで自分に対して罰則を与えることは無いし、まず何をしたら(しなかったら)違反なのか、というものも考えていない。だから、タイトルに書いた「作法」、というものが近いのだろうか。
大体、ブログに書く「こういうルールを自分に課してます」「こんなモットーで」「絶対これだけは欠かさない」といった宣言だったり、大きく胸を張った文章は数年すると現在と矛盾しているのがオチなので、別にそれを他人から突かれることは有名人でない限りあり得ないのだが、当時を省みたときに本当に恥ずかしくなってしまうので、なんとなくこういう感じだよー、という適当さで誤魔化すのが丁度いいのかな、とかこれも適当に考えている。
というどうでもいいことを踏まえつつ、私が何かに対して「嫌い」と言う際の作法を紹介していきます。
目次
- 「嫌い」と言うことで世の中が変わると思わない、期待しない
- 私が嫌いなモノを好きな人は嫌いにならない
- 嫌いな理由をカッコつけない
1.「嫌い」と言うことで世の中が変わると思わない、期待しない
「嫌い」と言うシチュエーション以外にも、悪いニュースを聞いたときや自分の身近で嫌なことがあったり、あの人ちょっと嫌だなーとふっと頭を通り過ぎていく、大きな範囲でネガティブな感情を持った時に共通して言えることなのかもしれない。
嫌いだと言うこと、書き込むこと、話すこと、そうすることで、世の中に嫌いの感情を載せたエネルギーがぶつかって、それがクリティカルを起こし、その問題やコミュニティに対して変革が巻き起こる、なんてことは間違っても期待しないようにしている。
想像・妄想に耽ることくらいは関係ないが、そうなればいいな、と考えてしまうとちょっと面倒なことになりかねない。怖いのは、期待することで、その期待がいつの間にか自己の内側で目標にすり替わり、その期待が叶うことが当然の帰結と勘違いし、酷いと他人に対してもその期待を背負わせようとしてしまう。これは結局悲劇を生むことになる。
一方で、こういう期待を本気で実現させようとする人もいる。それが政治活動や社会的な働きかけとして映っているのだが、私に関しては、たかが「嫌い」というだけでそれを成し遂げるエネルギーは持ち合わせていないので、まずは自分のバイオリズムを安定させることが優先、ということにしている。
そんなわけで、厳密には可能性を持っているのだが、世の中が好転するとは思わないようにしている。
2.私が嫌いなモノを好きな人を嫌いにならない
例えば私はアイドル(という概念)が嫌いでもう仕方ないんだけど、だからといって身の周りにいるアイドルファンのことは嫌いになったりはしない、ということ。
コミュニケーションをとっていかなくては生きていくのが(特殊なケースを除いて)極めて難しくなる世の中においては、自分と趣味が合わないからといって相手を嫌いになるということは、結局自分自身にとって不利益にしかならないことを自覚している。だから、「嫌い」規模が広がらないように、「嫌い」がいつの間にか拡大することはないように注意する。
例えば、野球が嫌いだからって野球好きの人間をみんな嫌いになっていたらキリがないし、野球が全く流行っていない国に行くなら話は別だが、日本国内では野球の話、例え話なんかは避けて通ることはできない。
それに、よっぽどのことがない限り、自分が直接コミュニケーションを取るような相手であれば、ある程度会話の交換を経れば、彼/彼女の趣味が気に入らないということがどうでもよくなるくらいに、その人間性、個性が段々と分かってくる。そうして、相手のことが色んな角度から捉えられるようになってくる。立体性を帯びた人格を把握できるから、その頃にはたかが趣味嗜好のナンヤカンヤでは別にどうってことなくなってくるのである。
反面、立体的にその人の個性が見えずに、ただ(自分が嫌いな)面だけが映っている場合は嫌いなままである。例えば、見ず知らずのアイドルファンのSNSアカウントは嫌い、といった具合である。私がその人に対して知っている情報は唯一であり、その唯一が自分と反するものだからである。
3.嫌いな理由をカッコつけない
他の人はどうやって「嫌い」を判断しているのか知らないが、私があるものに対して嫌いと言うときは、実際のところ大した理由もなく言っていることが殆どである。
理由を敢えて言葉にしてみるならば、「ダサい」「キモい」「不潔」「スカしてる」「テニサーにいる大学生が好きそう」「罰ゲームでやらされてるの?」「こういうネタなんだろうなあ」というラインナップのどれかに当たる。
つまり理由という理由はない。そして大体の真相は、嫉妬、羨ましさ、感覚のズレ、こういうことでしかない。「嫌い」というのはよっぽどのことがない限り単に価値観の相違、個人差といったものがベースとなっているから、言うまでもなく、くだらないものでしかない。
しかし、一度「嫌い」が発生すると、その後、この曖昧な嫌悪感をどうにか払拭して頭の中をスッキリさせたいので、少しでも形あるものとして保存しておきたい、という進展があり、その上で始めて、色々と「それらしい」理由を考え始めていく。
出来たモノは「それらしい」ので、まるで最初見たときから、その事後的で人工的な理由によって「嫌い」に至ったかのように自分自身さえも騙されそうになってしまうのだが、あくまで後から作った理由であり、最初はなんとなく肌に合わない、程度のものなのである。だから、ここら辺で終わっておけば別に問題はないと思う。
問題なのはここからで、事後的に作った理由の出来栄えがいいほど、自分に変な自信がついてしまう。カッコよく「嫌い」を組み立てたことによって、これなら他の人からも賛同されて当然だ、ゆくゆくはこの「嫌い」が世の中に良い影響を与えて然るべきだ、とどんどんイタタタタな方向めがけて進んでしまうのである。こうなったら、元々の理由がショボかったことなんてもう思い出すことが出来なくなっている。
このカラクリが自分で分かっていると、「嫌い」は過度にエネルギッシュにならずに済むのである。反対に、事後的な理由と混同した場合は、「嫌い」を他人にも理解させようとしたり、自分の抱いた「嫌い」が正当化されるために努力したりと、「嫌い」中心に自分が動いたり、エネルギーの浪費に至ってしまったりという悲劇に繋がりかねないのである。
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