Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

本当に何も得ることが出来ない恐怖の日記「4月3日」

 

訪問ありがとうございます。

 

「4月3日」

 

f:id:m4usta13ng:20150403161501j:plain

[フリー画像素材] 家電製品, TV / テレビ, リモコン, ボディーパーツ, 手, モノクロ ID:201412220800 - GATAG|フリー画像・写真素材集 4.0

 

一人暮らしをしてからというもの、テレビを観る時間がめっきり減った。WiiUを購入したので電源を点ける頻度に関しては微増したので、彼にはこれで許してくれないか、手打ちにはしてくれないか、と持ちかけているところである。

実家にいた頃、つまり高校生までの話になるが、それまでは自他ともに認めるテレビっ子だった。社会科に強かったのは無駄にテレビを観ていたからである。無駄に観過ぎたため、「面白い」とされているテレビ番組の約束事がなんとなく分かってしまい、あまり観たことのないジャンルに手を出すようになった。通販番組や5分ほどのニュース番組を血眼を浮かべつつ、どうにかこうにかこの欠伸の出そうな映像に笑いどころを見出そうとした。その結果、歴史番組や語学番組、結構NHK寄りの視聴者に成長した。センター試験の政治経済がやけにつよかったのはここらへんに理由があると思う。

以上を引っ括めてテレビが大好きだったが、引っ越してから一時期テレビのない時間を過ごすことになった。空白期間は、特に違和感がなかった。別にテレビがなくてもいいことが判明してしまった。それ以来、テレビの言っていることを端から疑いの姿勢で受け取るようになってしまった。メディアリテラシーとかいう強そうな呪文めいた用語からしたらこのフォームは正しいのかもしれないが、いかんせん液晶に映る諸々が、どこか味気ないものに見えてしょうがなくなってしまった。馬鹿になって楽しくアッハッハ、これが一番幸せなんだろう。そういうことができなくなってしまったのは物哀しいことだ。

 

 

 

今日だって、そんなおセンチな心持ちになった。朝、余りにもひどく寝違えたため、せっかくだからいつもと違うことをしようと思い立ってテレビをつけた。すると、中身を読んでいないまとめブログの記事タイトルで見たような気がする犯罪のニュースが取り上げられていて、誰かが「どうしてこうなった」的なことを言っていた。コメンテーターの立派な仕事をしていたのである。

テレビをナナメに観るようになった私、間違えると滑り台が上がっていくクイズ番組だったら武井壮でも真っ逆さま、顔面粉だらけになるだろうという角度くらいに、キツくナナメに観るようになった私は、この「どうして」というニュアンスが気になった。折角のなにもない日、こんなことを頭にこびりつけなくてもいいのに気になってしまったのである。

 

f:id:m4usta13ng:20150403161651j:plain

[フリー画像素材] バックグラウンド, ジグソーパズル ID:201503311400 - GATAG|フリー画像・写真素材集 4.0

 

人間の行動に「どうして」なんて、おそらく無意味に等しい感情だろう。「事実は小説よりも奇なり」という諺があって、真の意味は別にあるんだろうが、小説というものは人間の感情に説明がつくようになっている。そうしないとその小説は駄作と言われてしまうからである。読者の視野の内で起こった出来事や生まれた言葉が、どこか別の行動や発言の引き金になる。誰でも知っている小説の常識であり、勿論こういう約束事が出来ていないと、それは小説というものではなく妄想や夢を書きおこしたもの、ということになってしまう。鳥居みゆきのネタは「マサコの!妄想!夢芝居!!」と銘打ってあるため、目茶苦茶な展開でも許されるのであり、「意味がわからない」という評価は、「そうですよ」としか言い返せない。

事実が小説よりも奇々怪々である理由は、この因果関係というやつが成立すると確定していない、というところにある。人間のやることなすことなんていつだって突然である。突然なにかをしようと思い立ち、そこに明確な動機なんてなかったりする。例え動機があったとしても、「本文中のことばを用いて30字以内で説明」できるものでもないし、勿論「書き抜け」るようなものでもない。なんとなく、とか、いや、面白そうだし、ということが主だったりする。だが、なんとなくという感情は決して悪いものではなかったりもする。これが、フィーリングというものが一定の支持を浴びている理由になる。そういえば、最近は、フィーリングカップル的なやつを見なくなった。見ている分には面白かったのだが。

どうしてこんなことをしたの?ということに対してしっかりと返答をできたならば、ケンカは起きないだろうし、離婚率だって減ってくるだろう。犯罪だって少しは収まるかもしれない。突然やってしまうから「衝動を抑えきれなかった」のだし、「価値観が合わなかった」ということも起こってしまう。事実は小説よりも奇なり、人間はとても面倒で複雑で、意外と頭が悪いのかもしれない。

と、こんなことを考えるようになってしまったから、テレビなんてそっちのけだし、若手の女性タレントが出てきたらまず所属事務所が気になり出したりするし、もうなんというかエネルギーを使う視聴スタイルが確立してしまった。物事、のめり込むと段々見えなくてもいいものが見えるようになってきてしまう。こんな言い方をすると、霊感がある人の発言みたいだ。わたしにはないが、霊感なんてない方が気楽に生活ができる。

 

f:id:m4usta13ng:20150403161834j:plain

[フリー画像素材] バックグラウンド, セキュリティ, 錠前, PC / パソコン ID:201405232000 - GATAG|フリー画像・写真素材集 4.0

 

のめり込むと面倒くさいのである。最初はただただ楽しいとか面白いとか、単純な感情で片付いていたあれやこれやが、段々とそういうわけには行かなくなってしまう。いわゆる「ガチ勢」になると、ガチ勢なりの苦悩を抱えるようになる。で、ストレートに面白いと思っていたものが、色々考え方をシフトさせていかないと、面白いという今や遠くなってしまったゴールにたどり着けなくなってしまうのである。

ボーリングでいいスコアを取るには、まっすぐ真ん中に投げてはいけない。あえて少し曲げてから、中心に当てなくてはならないのであり、そういう苦労に似ているような気もする。もし、ボーリングをある程度楽しんで、ボーリングに対して向上心を失ってしまえば、曲げ方を憶える必要はない。その作業、練習期間を積んででも上手くなりたいんだ、と思える程に魅力を感じることができれば、プレーヤーは自分がガチ勢であることに苦労を問わないのだろう。なんか熱中することが見つからないなあ、と思っているような人は、そういう苦労が億劫に感じてしまうのだろう。これに関しては自分が書いていて一番痛くなってしまう。

 

ただの日記だし、これくらいで終わらせよう。日記エンジョイ勢だしね。おわり。

 

読んでくださりありがとうございました。