11/30の日記
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「日記 11/30(日)」
ここ最近は雨の日が多い。今朝はどうだったかはわからない。昨日は夜遅くまでいそいそと動画作成の勉強をして、大学の課題も山のようになっていたことに気づいて冷や汗を垂らしていたからだ。今日だって現に昼に起きてしまった。
雨で思い出すのが、雨の精神の関係性のことだ。ブログにも書いてしまっているので気兼ねなく書いてしまうが、今年の前半はうつ病との付き合いでほぼ消化した記憶がある。
駅前の精神科に一時期通っていたのだが、初診の際に、病院がオリジナルに作成した「うつ病とは」という類の資料をもらった。出版もしておらず、病院独自に印刷しているらしい。少し厚めの、少し暗い緑色のA3用紙両面に、Windowsには初期状態で搭載されている丸ゴシックのフォントでつらつらと基本的な情報が記載されている。おそらくWordで作ったのだろう……なんてどうでもいい分析をしてしまった記憶がある。
そのなかには、うつ病という未だに理解度が高いとは言えない病気に関するいくつかの情報が、誰にでもわかるように簡単に書かれている。お医者さんはみんな頭がいいのに、平易な文章を書けることに尊敬した。
頭を使わずとも文章が読めて知識が入ってくるのである。例えば、うつ病はれっきとした病気だから、怖がらずにくすりを飲みましょうとのこと。わたしも抗うつ剤や睡眠薬をもらっていた(症状が軽いので、飲んだ瞬間に眠気が襲う、とかいうものではなかった)。薬を飲んでしまうと回復しても薬に頼ってしまうのではないか、という心配をするひとは多く、わたしもそうだったのだが、正しく利用していれば、依存症状は出ずに済むそうだ。これはまさしく西洋医療の考え方に近いのだろう。ただ、わたしが感じる限りで、日本(というかわたしの周り)ではうつ病や精神的な病を科学的に捉える、という考え方が備わっていないので、薬でなんとかする、という感覚を理解してもらうのに苦労していそうだな、と、わたしはお世話になった精神科に要らない心配をした。
話をもとに戻すと、先程の資料によると、天気や気温の気象条件も、人間の精神に関わってくるようだ。雨の日だったり、季節で言うと冬の時期というのは、気持ちが落ち込みやすくなってしまっているとのことである。本当にそうなのか検証をしたわけではないのだが、お世話になったところの資料に書かれているために信じきっている。
こうしてみると、雨というのはやっぱりいいものではない。メリットデメリットを並べてみれば、それなりに得るものはあるのだろうが、まあ晴れの日と比較するとやっぱり雨の日は魅力に劣ってしまうのだろう。
とはいっても完全に否定するわけでもなく、やはり雨にも魅力はある。雨に関する名曲や素晴らしい物語はいくつもあるし、人間の濡れた様子は男女構わずどこか魅力的に映るものである。雨の音は集中力を高めるとかいう不確定的な理由で雨の音を流してくれる環境音サイトがなんだか人気だし、ここまで行くとトンデモだが、苗字に雨という字が入っているひとの祖先は雨に何かしらの魅力を感じたのかもしれないし、そもそも「雨よりも晴れいてるほうがいいでしょ」という前提さえも、たくさんいる人間に一人一人聞いてみれば簡単に覆る余地がある。いわゆる価値観というやつだろう。
わたし自身も最近は雨に助けられているような気がする。
大学の夏休みが終わって後期の日程に入ってから、どうも気持ちが乗ってこないままここまで来てしまっている。日々のルーチンワークはその色を強め、どこか山も谷もないような日々を過ごしている。だからこそ休日や空いた日にはどこかに出かけようと意気込むのだが、そう簡単にいかないのがわたしの出不精である。映画一つ行くのに、わたしは一ヶ月の時間を要してしまう。いざ前日となれば本当に行くべきか逍遙を重ね、いつの間にか朝になっていたこともある。そのまま徹夜で映画館に行き、そのままぶっ倒れたのは半年前のことだっただろうか。最近はネット上の面白いコンテンツがどんどん見つかり、そしてどんどん時間を取られていくので、オフラインで開かれいてるコンテンツがオンラインのそれを上回らなかったときのことを考えてしまい、躊躇してしまっている。そういうことを考え始めた時点で色々とアウトなのだが。そんなわけで、外に出かけて楽しいことを見つけることができる人は基本的に尊敬する。わたしには絶対にできないことだからである。
そうして、出かけようか、どうしようか、と迷った朝に雨が降っていると本当に助けられた気分になる。雨が降っているから家に居よう、という言い訳がいとも簡単にできてしまうのである。迷いに迷っている選択肢の一つを簡単に潰してくれる雨という存在は救世主に見えるのである。……本当は、その反対である可能性もあるのだが。
なにを書いているのかよくわからなくなってきたのだが、もうしばらくはこの非生産的な生活から抜け出せそうにない。