Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

2015年、自分を外部保存する文化が更に栄えていく。

 

訪問ありがとうございます。

今日は日記です。近況報告的なものも含み、ただ思うままに書いています。

文章の上手い人は、こういう取り留めもない話にこそ実力というかセンスが漏れ出すのでしょう。わたしはそんなことないので、どうぞ。

 

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「いわゆる『絵師』!って感じの絵を描きたい」

 

PCからこのブログに来るとサイドバーにわたしがニコニコ静画にあげた画像のリンクがあります。これもブログと同じように記憶の外部保存、いわゆる記憶のクラウド化の一環として保存しているのですが、わたしはこんな感じのパーツを切り貼りした幾何学的な絵しか描けません。絵というかはわからない、そのくらいの不気味なもの。

スマホから来ている人が殆どというデータがあるので、一応画像を貼っておこう。

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最近作ったもの。手順としては、まずスケブに手書きでガリガリ描き、それをプリンターでスキャンしてから、アドビのIllustratorというものの力を借りてベジェ曲線に対応させる。スキャンの時に出たミスや埃を消して、色を塗って(というか変更して)、最後に文字を足す。日頃からフリーフォントを集めているので、膨大にあるデータから相応しいものを選択する。フォントを画像に埋め込んだら、これができる。

話ついでに言うと、大元の形(この場合は『ネクロダンサー』というPCゲームのアプリケーションアイコンである)を先に決め、その形がわかるようにパーツを書き足していく。この約束さえ守っていれば、形は成立する。中身に関しては思い思いに、何も考えずに、(便利な表現だが)フィーリングとか言う奴に一任すれば問題ない。つまり何かと言うと、誰でも作ることができます。

 

こういう感じの絵しか作れない。やはり「描く」という表現はどこかストライクゾーンに収まらないような気がするので、わたしは「つくる」という形で、大抵のシュチュエーション濁している。

なんでそうなのか、というと、いくつかの理由がある。いずれも簡単、シンプルなものだ。

 

1.道具がない

イラレは大学に入って2年目の春に購入した。所属していた団体の宣伝やパネルといった外部向け資料を作成するとき、そのコミュニティでは(後から考えればフォトショの方がずっと簡単そうなのに)イラレを使用する、という習わしがあり、校内にある共用のPCで作成していたのだが、いちいちそこに行くのが面倒くさかった(インドア派だし)のと、アカデミック版が安いことを教えられたので手に入れた次第である。なぜか単品で買ったのも、振り返ると無知無知ということがはっきりしてきて肌が赤くなる。

だから、絵を描くためのツールというかそういうものがない。PCを通すにしたって、手持ちの存在では足りないものが多い。

 

2.絵が下手だから

それを言ったらおしまいよ、ということだが、とても絵が下手だ。上の方に書いた「絵師」的な、アニメやマンガっぽいあの楽しげなものは絶対に描けないと思う。わたしの右手は全くと言っていいほど人物や、動物、植物、機械、建造物というものが描けない。観察眼というものがどうかしているのかもしれない。見本を横に添えたところで、頭身、バランス、対称性、色々グッチャグチャになる。

小学生あたりからこのマイナス才能を自覚していたので、中学生のある時期からは今のやり方にシフトしていった。高校生のときに作ったやつの画像をあげておこう。

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どうあがいても「それっぽい」どまりなのである。たぶん、周りからも「上手い」と思われたことはないだろう。高校の文化祭で、祭りの最中のみ建てられる入場門をデザインしたときも、この感じで挑んだのであるが、面識のない文化祭実行委員OBから「よくわからなかった」と間接的に零されてしまった。その時は「お前の存在の方がわからんわ」と血気盛んに反撃を試みた(未遂)が、今になれば一理どころか理理理の理。「よくわからなくてごめんなさい」と頭を垂れるしかないと反省が現れる。

絵の上手い、というかいい作品は、「わかりやすい」または「よくわからないけれど、見た人間の何かしらの感情を使役的に起動する」、このどっちかだと思う。このどっちでもないとき、ひとは下手と思うか、それを見せてくれるひとになんといって取り繕おうか焦りだすのだろう。わたしはこれまでの人生で、色々な人を思案させているかもしれない。今も。

 

3.向上心がないから

結局はこういうことである。これまでにあげた二つは、その状況をなんとか打開しよう、というカウンターマインドがあれば何も問題ないからである。絵で飯を食べたい!とかハイレベルなことを考えなければ、然るべき環境を整備して、然るべき情報をもとに練習を重ねればそれなりに上手に、それなりに「わかりやすい」または「なんか凄い」というセーフゾーンに着地できるはずである。向上心がなければ、なにもない。

 

どうでもいいけど、「絵師」って名づけかたはやっぱり気持ちのいいものではないな。以前の記事で「歌い手」とか「実況者(これは、特に発音がムカつくんだが)」とかその類の名付け方をディスり申したが、ここら界隈はどうもそういう節があるようだ。好みの問題かな。

 

 

m4usta13ng.hatenablog.com

 

 

自分のためにつくる

 

ここまでで挙げた、絵というものの評価、「上手」とか「わかりやすい」とか「なんかスゴイ」とかは、あくまで相手が居ることを前提にしている。相手が居る状況で、誰かに見せる状況で、自分の画像はダメだなあ、という話。

 

しかし、相手が存在しない場合は?つまり、自分しか評価する者がいないというシュチュエーションにおいてはどうだろう?という転換をしてみる。自分しか評価者がいない場合、即座にここまでの評価軸はどうでも良くなる。

そして、自己評価に関して必要なことは、「自分であるかどうか」、これだけなんじゃないか?という仮定をしている。どういうことか。

 

わたしは上に出したようなものをつくるとき、自分のやりたいことをやっているか、という観点で、作業を続行するか、背中に控えた枕に吸い込まれるかの判断をする。その結果作られている。つまりは自己満足である。学生団体の宣材用に絵を作ったことが何度かあるが、多少の制約をくぐり抜けてでも自己満足が出来たかどうかのチェックはするようにしている。エゴエゴしながらつくっている。そこに、それをつくったときの「自分」が存在しているか?自分のリアリティはあるか?という判断基準は揺るがない。

 

   

 

なぜインターネット上に?

 

そこで、じゃあどうしてネット上に画像を上げるんですか、という問題がある。これは説明できない。ペットを散歩させるのと同じなのかなあ。とか考えてたが、これが答えがでない。しかしながら、単なる目立ちたがりとか、少しでも褒めて欲しいとか、もしかしたら、とか、勿論こういう感情も含まれているが、これだけでは説明しにくいというものがある。

それが、なんか上の方でさらっと書いていた「記憶のクラウド化」というやつなのかもしれない。この理論、自分を外部ストレージに保存するという方法論は結構使い古されているけれど、多分これは有力だ。

この「自分を外部保存する」ということは、わたしのようなへんちくりん太郎でなくとも、ごくごく一般的に行われていることと考えることができる。

殆どの人間がそうであるようにして、自分の頭の中だけでは、わたしは色々なことを忘れてしまう。忘れるということはどうでもいいことでは?という話にもなるが、そんな単純な話ではない。例えば、わたしは忘れてはならない人の生年月日をよく忘れてしまう。例外を上げれば枚挙に暇がない。瞬間瞬間の感情を、どうにか残しておきたい。そうでなくては、その時点の、強い気持ちを強いエネルギー消費によってつくりあげたわたし自身に対して申し訳が立たないような気がするからである。だから、それを収めるために色々なことをする。

私の場合は、(昨年は150の記事を残した)このブログもそうだし、先の絵もそうだし、自分が選んだものの読書をすること、ちょっと高い買い物をすること。

 

このような、日々の生活に現れる「ちょっと特別な行動」は全て、記憶を外部に保存していると言っていいのではないだろうか。

確かに、わたしの保存方法はちょっと外れている。多数派とみられるひとびとは、友達や親密な人間と言葉や諸々を交換すること、記念写真を撮ること、旅行にいくことやバックパッカーになってみることで、その時々の自分自身を保存している。

わたしには、今並べた多数派の保存形式が合わないというか苦手である。友達も少ないし(色々あって本心が喋れなくなった)、写真とかあまり撮らないし、出不精だから外には出ない。帰省とか合宿とか試験とか、そういうのが付随しないと決して遠くには行けないのだ。だから私の保存はインターネットを介しているのかもしれない。整理整頓が苦手ってのもあるかもしれない。

 

「保存形式」、つまりどういう方法で当時の自分自身を残しておくか、という方法は多様になるだろう。確信している。以前と比べて現代、そしてその先は人間の趣味趣向は恐ろしい程バラバラになるのは分かりきっている。メディアという大テーマからテレビ、雑誌に加えインターネットがやってきて、更にインターネットもTwitterなのかフェイスブックなのかはてなブログなのか全部なのか、動画サイトもYouTubeニコニコ動画あと諸々、ニコニコ動画だってひとつのカテゴリをこよなく愛して、一方で何かしらのカテゴリを憎んでいることもありうるし、同じゲーム実況でもその趣は変わってくる。コンテンツはどんどん専門的に分科している。テレビの視聴率が悪くなるのは制作者の責任以上に「時代」という強大かつ見えないアイツの為いだ。CSチャンネルだけでも異常な分散を遂げている。その中から20%?冗談じゃない、と嘆くひとの気持ちは支持されるべきだ。

 

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多種多様な自己保存ファイル形式

 

近年登場している様々な「文化」は、自己保存の一貫という観点で見るとわかりやすいんじゃないか、という提案をさせていただきます。つまりなにが言いたいのか?と言うと、これからも世界には沢っ山のへんちく凛ちゃんが出没アドマチック天国だと思いますが、どうぞその「外側(ガワ)」だけで叩かないであげてください。ということです。

 

最初と言ってることがだいぶ離れてる。このホールはダブルボギーかな。

 

 

 

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読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

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