Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んだ私の脱・俗願望

 

こんにちは。

 

今回はオードリー若林正恭さんの書いた『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んだので、その感想と関連する?私の話をしようと思います。

とにかく若林さんというパーソナリティの視点を疑似体験することが出来る一冊でした。

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬
 

 

お断り

 

この記事はブックレビュー・書評ではありません。あくまで本の感想という感覚なので、それを受け入れてもらえばありがたいです。


また、ネタバレを極力避けるように書いています。しかし、どこからがネタバレなのか、というのは各個人によって異なる基準があるかと思われますので、これからこの本を読むことを楽しみにしている方は、極力注意したうえでこの記事を読み進めるかを判断してください。

 

 

 

それでは本線に戻ります。

 

今回の感想を簡単に書いていくとこんな感じです。

 

  • 「俗」に染まりすぎることの危険さ

  • ポスト「リア充イジり芸」

  • 自分の変化を恥ずかしがらないで生きたい

 

ピンと思いつくところを上げてみました。以下、一つ一つ説明していきます。

 

「俗」に染まりすぎることの危険さ

 

この本は、振り返るとここしかない、という絶好のタイミングに突き動かされた若林さんが、日本、そして東京という忙しく、時折自分が、また何が何だか分からなくなってしまうような場所とは全く異なる世界観、価値観、思想、システムによって動いているキューバという場所に降り立ち、そこであったたった数日間、しかしそれは測りきれない大きな感動を受けとめ、柔らかく、時には厳しく、様々な角度から世間に対して、自分自身に対しての感覚を綴ったものとなっています(あらすじをカンニングせずに書くとこんな感じ)。

 

広告が嫌だ

 

私が真っ先に受けたショッキングなことは、キューバという場所には広告が一切ないということです。

いや、よく考えればそれは社会主義という思想の下において当然のことではあります。考えれば高校生のころにはマイケル・サンデルの番組でそのような話を聞き、例えば資本主義において何十種類も並べられているコーラも、社会主義となると1種類、多くて3種類、ということが当たり前になっているということもこの本を読む中で思い出したことです。

そして、私は最近にになって広告という存在に対してかなりナーバスになっていたことを引き出されます。

現在は都心にて勤務、というか研修をしている最中なのですが、やはりそういう場所になれば広告というものは嫌と言うほど目に入ってきます。電車にも当然のようにCMが流れるようになっているし、駅から外に出るルートも週替わりに新しい広告が貼られるようになっています。並んでいる柱に、私が進む毎に、少しずつ違う表情をしている俳優が目立つドラマの広告。

私は田舎出身という訳でもなく(さいたま市)、都心がこういう場所だということは分かりきっていたことなのですが、いざ毎日のようにこう言った光景に出会うと、「なんだか心拍数の高い場所だな」と改めて実感します。

何よりショッキングなのは、ラッピングされたトラックが大音量を撒き散らしながら練り歩く広告です。大体は音楽をはじめとした芸能系の広告であり、周りの環境を一変させてしまう力を持っています。これが本当に嫌で、思わず歯を食いしばってしまうのです。

何が嫌なのか、というと、「広告が向かってくる」ということに本当に辛いなあと思わされてしまうのです。一般的に広告というのは同じ場所に固定されているものだから、それを避けようとすれば手段があります。しかし、広告がトラックに乗って、選挙演説の如く爆音でやってくるのですからもうどうしようもありません。いやでも顔を向けてしまいます。慣れたとしても、耳は反応してしまう。

テレビCMも同じと言えば同じなのですが、やはり逃げられなさはトラックの方が凶悪です。

 

広告に否定されているような

 

若林さんも冒頭に書いていることと重複する可能性がありますが、多くの広告に対して、どこか私自身を否定してくるような、または、自分自身に当てはまらないことに関しても、この広告の主張に当てはまらない人間を否定しているようなニュアンスを感じてしまいます。

転職の広告は、転職をしないアナタは損をしています!と言っているように見えます。ウエディングプランの広告は、結婚式をすることが人間にとって最上の幸せです!と言っているように見えます。テーマパークの広告は、休日はアクティブに出かけることが当たり前です!と言っているように見えます。映画の広告は、さあこの映画で感動してください!さっさと泣いてください!と言っているように見えます。

また、様々な広告に共通して、「私(たち)は幸せですよ!早くこっちに来てください!」と高らかに言われているような気分になることが多いです。そして、どれもこれも派手な人間がそこに移っていて、おそらくある程度の予算がかかったことが予想されて、この広告を作った人間の「どう?私の頭柔軟でしょ?」という感情が見え隠れしているような、どれも「~ような」ではあるのですが、徐々に徐々にダメージを受けていきます。自分が煌びやかな広告の中の世界とはかなり異なる場所にいることも原因です。そして、私が幸せになるということが、経済的にも、人間関係的にも、難しいということも関係しています。そういう個人的なところも引っ掛かりを生んでいるのです。

最近では本屋を歩く時にもそういった感情を喰らうようになりました。特にビジネス書、自己啓発書のコーナーは私の在り方を否定し続けます。これを知らないなんてとんでもない!こうするだけで簡単に幸せになれるのに!マンガで簡単に知識を得ることができるのに!と、彼らは私に「嘘」を伝えようとしてくる、そんな気がしてボディーブローを喰らい続けるのです。

2chまとめサイトからアイデアをパクってきたみたいな本やマンガも増えたような気がして、タイトルだけで息が詰まることも度々あります。

 

気にしない、って能力なんですよ

 

こういうことを書くと、「気にしなければいいじゃん」とか、ひどい場合は「気にするってことは興味があるってことだよ」、「本当に関心がゼロだったら考えもしないもん」ということを言われることが、今までにも何度かありました。日常で嫌いなものの話をすると、決まってこういうカウンターをしてくる人がいるし、皆さんの中にも思い当たる方がいるかもしれません。

しかし、現に、私は、こういう事に関して気に障っているいるし、それでいつ嫌悪感だったり居づらいなあという気持ちを抱えているのです。そしてそれが反転する、という可能性は(可能性の話だからゼロというのはおかしくなってしまうのだけど)ありません。

最近は、上に上げた「好きと嫌いの表裏一体説」を掲げてくることに対して、ああ、これは嫌いという感情を潰しに来ているのだな、と考えるようになりました。どんなネガティブな感情であっても、この説を投げつけることで、そのネガティブさを極めて嘘に近いものに変えようとしているのではないだろうか、と考えるようになりました。

「気にしない」という行動を取れる人は確かにいるのかもしれませんが、それはなかなか変化を起こすことのできない根本的な性格が起因しているある種の能力に似たものなのではないでしょうか。能力ということになれば、それを持たない人もいるという訳です。

「本当に嫌いなんだ」と言われたら、無闇にそれを覆そうとはしないでください。自分の中で納得して、徹底的に勝敗を付けてしまおうとは考えないでください。

 

「俗」に怒ることという「俗」

 

こうして、他にも、数えきれないくらい私は世間の出来かた、一つ一つの要素に対して何らかの怒りを抱えていて、空虚な人間であるにも関わらず「こうなればいいのに、なんでこんなことを(わざとなのか分からないけど)しているんだろう」という悲しい気持ちに入り込んでしまいます。

 

SNSが生活に浸透してすっかりそれは新鮮なことではなくなっている今現在、こうして、私みたいに世間に怒っている、悲しんでいる人間は簡単に見つかるようになりました。そして、その怒りの対象になるような要素もまた、簡単に見つかるし、ご丁寧に「ここに起こるべき対象がありますよ!」と教えてくれる仕組みと言うものが出来ています。

そして、こういう文章を書いているみたく、ふと視線を離して俯瞰してみると、こうして怒っている人と怒る対象の人と言うのは、同じ箱の中に同居している、という感覚を得ることになります。どっちもどっち、という奴です。怒られている方は怒られそうなこと分かってやっている(いわゆる「炎上商法」。ネットスラング使いたくね~)人もいれば、怒られることを予測せずに純粋に立ち振る舞っている人、いずれも確認することができ、怒っている方は怒っている方で、自分の正しさを表明するとか、相手に対して間違っていることを気づかせたいとか、様々な理由によって石を投げたり拡声器で説得したりしています。

ただ、これも段々分かってきた人が増えて、もはやこちらの方が常識的感覚として移って言っているのですが、怒ることは空虚なことで、怒ることで世間はそんなに変わらないし、そうでないにしてもネットの向こうにいる本当に人間そのものなのかも分からない相手に怒られても響かないし、わざと怒られることを狙っている人に怒ったら思う壺になってしまうし、ともかく、究極のところ直接顔を合わせて、じゃない限り何かに対して怒る、という行為は何も成し遂げることが出来ないように思えてくるようになってきました。

とは言ったものの、この「同じ箱」から逃れることはとても難しいことなのだ、と思わざるを得ません。

例えば、怒りたい人に向けて怒るツイートをする、ということを控えることはそこまで難しい事ではないと思います。実際に怒っていることを直接ぶつけている人って、マイノリティの方ですよね。感覚的に分かってもらえると思います。

しかし、怒るという感情そのものを控える、ということは残念ながら至難の業、と言えるでしょう。さっきも言いましたが、気にしないようにする、ということは限られた人にしかできないことで、それが出来ない人の頭の中にはどうしても「何者か」が浮かび上がってきてしまいます。その現象自体を止めることは難しい。

こうして考えると、「俗」という箱の中から逃れる、ということはそう簡単には、自分の発起一つではできないのだ、という重い壁が立ちはだかってきます。

 

違う世界に行くということの意味

 

だからこそ、普段の世界とは全く違う場所、全く違う環境に行ってしまう、ということが価値あることとして認められている、ということを感じました。キューバに行くことで、普段の若林さんとはかけ離れた若林さんが現れてきます。が、どちらが本物ということもなく、どちらが嘘の性格、ということはありません。違う、とはいってもどちらもその人自身のもの、と言えるでしょう。

なぜ世界を変えると自分の振舞い方を変えられるのか、というと、それはその世界が異なる価値観を持っているからでしょう。そこまで複雑なことではないと思います。

私は個人的に、これも同じような考えが太古からあるはずですが、人間の性格というのは、そのほとんどが環境によって形作られるものであると考えています。勿論、生まれ持った性格と言うものがありますし、合わない環境、という概念もありますが、大抵の場合は、環境に順応していくとともに、その人の在り方も段々と変化し、その環境に合わせたものになっていきます。私はここから、自分の性格、という言葉がとても曖昧であると思っています。

少し議論が外れてしまいましたが、違う世界に行くこと、またはこれに匹敵するような大きな行動を起こすことでしか、俗を脱することはできないのだということは、この本から感じた一つです。

 

「俗」に染まりすぎることの危険さ

 

「俗」に対面し続けることは色々な弊害を生むと思います。単純に俗世間と言うものは疲れてしまう要因が多いと思います。また、「俗」に特化し、自分がいる世間での立ち振る舞いばかり気にしていると、もっと抽象的な概念、そして根底的なものごとである知識や教養、芸術的な要素からいつの間にか大きな距離が出来てしまっていることに気づかされます。私は、こうした具体的な世俗と抽象的な世界を行ったり来たりすること、そして、若林さんのように世俗をすっかり忘れることが出来るような世界に一時的に身を任せることが対策の一つである、と考えています。

 

もう少し違う言い方をすれば、一つの価値観に拘泥することの危険さ、ともいえるでしょうか。会社の人間関係だけを考えていたらどんどん疲れてしまいますが、切り替えの上手い人は、休日は共通の趣味を持つ仲間や、友達や家族と交流することなどによって、別のコミュニティに移動することであるコミュニティの煩わしさから解放される、という手法を実行しています。

教育課程では真面目に在ることを指導されますが、世の中では真面目に生きることが馬鹿馬鹿しく思えてくることと関係しているかもしれません。外にも、子供の時に言われたことが嘘だった、ということは幾つかありますか、今回は省略します。

 

もっとも、例えばキューバの人にとってはキューバが世俗でありますから、今考察したテーマに対して、絶対的に最適な場所と言うものは無いのも確かなことです。

 

 

 

ポスト「リア充イジり」芸

 

先ほど言及した「怒られている人も怒っている人も同じ箱」という話に関連します。

 

私はラジオが好きで、それに伴ってお笑いのことにもどんどんのめり込んでいるのですが、最近の流れとして、これは若林さんだけではないのですが、先ほど言及した「同じ箱」の感覚を引き出すような笑いを考えている芸人さんが増えてきたように感じています。

お笑い芸人のネタやラジオは、世間においてスポットライトが当たるような人々や、純粋に流行を楽しむ人々や、とにかくマジョリティ的なものに対してそれを貶す、といった手法によって構成されているものが割とよく見られています。今(2017年8月)だったら、ナイトプールでインスタ映えするような写真を狙う若者をバカにする流れはいたるところで見受けられます。

かくいう私もそういうタイプの人間なので、電波に乗せてそういう思いを言ってくれることはとてもありがたく思います。共通する考えを持っていることに安心することもあります。

ですが、特にSNSが生活に定着して以降は、別に芸人でなくとも、例えばYoutuberみたいな半分一般人半分有名人みたいな人々がこの手法を使うことができるようになりましたし、更にはまったく一般人(そういや一般人の概念ってなんだ)でさえもこういった貶しは当たり前にできるようになりました。別に代弁してもらわなくても、例えばこうしてブログに書いてしまえばいいわけでもあります。

こうなってくると、今までみたく「リア充貶し」をしている価値が、芸人さんのような立場にとっては、段々と減っていってしまっている、ということになるでしょう。だってあんまり独創的なことを言っていない、その辺の人でも言うことができることを言ってしまっていることになるからです。

こうした流れなのか、単純に芸としてのオリジナリティを追求した結果なのか、お笑いの中で、「リア充貶し」をしている人に対して、お前もお前だよ、と言ってしまう、という方法がある種のトレンドになってきているように感じています。ちなみに、昨年2016年のM-1グランプリ準決勝では、「リア充貶し貶し」のネタの後に、「リア充貶し」のネタをする、という後者にとって大変不利な展開がありました。

こうした流れだったり、「リア充貶し」の弱さを体感することによって、私もそういう感覚、もっと言えばかなり遠い場所から客観的な立場を得るために感覚を研いでいかなければ、と思わされました。

 

 

 

自分の変化を恥ずかしがらないで生きたい

 

近年の若林さんは、とても強い人のように見えてきます。勿論、本人からすればそんなことはなく、様々なところで苦しみを負い、どうにかしてやりくりしているのかもしれません。

かつて人見知り芸人として認識され、一気にその存在感を増し、同じ人見知りの人々からの支持を大きく集めた若林さんですが、現在は自他ともに人見知りではないことを認めています(時折よみがえってくることはあるようですが)。

そして、かつて人見知りであることで仕事を貰っていた面もありながら、変わったものは仕方ない、と開き直り、その自分自身の変化を楽しんでいる様は、かなりの「強さ」を感じさせます。

芸能人やミュージシャンなどに対して、「変化しないこと」を強く求める人は少なくありませんが、そういう環境下に置いてもきっぱり自分のことを宣言できるのは格好良さがあると思います。

(学生時代にこういうことを書きました)

本の内容と直接かかわるかは怪しいですが、こうした若林さんの強さをテレビやラジオなども含め日々体感していると、私自身も自分の変化を楽しみたいと思わされます。

そんな私も、この数年で大きく自分の性格を変えるようになったと思います。

精神的に疲弊してしまい、しばらく社会から離れた位置で時間を過ごし、そこからいざ復帰する、という経験を経て、正義でありすぎること、自分に対して反省を重ねすぎること、善を追求しすぎること、誰かの期待に応えようとし過ぎること、競争社会にくらいついて行くことなどが自分の感情を壊してしまったことを省みて、簡単に言えば「もっと悪い人になろう」と考えるようになりました。

これが正解かどうかは誰にも判断することはできませんが、自分が生活を保つためにはひとまずこういう感覚になるしかない、という思いがありました。今では自分が思った以上に性格が変わり、悪くなったので、自分自身の変化そのものに驚きと発見があります。たとえば、この人とは合わないだろうな、という相手に対して、以前なら対処法を練っていましたが、今では(内側ではそうでなくとも)とにかく無関心であることを貫いたりして、こんな世の中だから、特別な人間でない限り自分を守っていかなくてはならないんだ、という考えにシフトしています。

 

 

 

以上を感想とさせていただきます。やはり書評という感じではなくなりましたね。

読んでくださりありがとうございました。