Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

塾予備校に行かずに一人で受験勉強を成功させる方法・・・その4、たぶん最後

 

訪問ありがとうございます。

 

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前回までの記事はこちらです。3つもあるよ。

 

m4usta13ng.hatenablog.com

 

 

m4usta13ng.hatenablog.com

 

 

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それでは、今回でこの話は最後にしたいので、ぱっぱと書いていこうと思います。各メリットとそれらに関する具体的な内容の続きからですね。

 

④自分の好きな場所で勉強できる

自分が考える中で、一、二を争うメリット。ほかの項目で言ってしまっているが、自分に合わせた場所、というかその日にあった場所を選んで勉強ができる、というのは大きなメリットと言える。

自分が勉強に集中できる場所は、日々変わっていくものだということを、そもそも考えたことがある人が少ないだろうが、私は早いうちに深層で気づいていたのかもしれない。これにしたって勿論個人差が存在しているが。

新鮮な場所では勉強が捗る、と言い換えると納得してくれるかもしれない。家にずっといてずっと勉強できるだろうか?様々な誘惑や家族や生活音などの邪魔が入るというものも要素としてあるが、単純にその固定された環境に対しての「飽き」が発生してくるから、ずっと同じ場所で勉強ができないのだと思う。事実、図書館やフリースペース、カフェなんかで本を読みメモを取るという人々が一定数いるということは、人々が新鮮な場所を求めている、ということを暗に意味しているのではないだろうか。

「飽き」という表現をしたのは、勉強をする場所にとってそれが最も重要だからである。飽きというバラメータよりも「便利」というパラメータも重視することができるが、それ以上に「飽き」の存在が、こと私にとっては大きなポイントとして君臨していた。

夏や冬になると、冷暖房の存在が人々に染みてくる。塾や予備校であればもちろん快適な温度を用意してくれる。私はそこには行けないから、冷暖房をつけてくれない放課後の教室や、あってもけち臭い風が吹く自習室や市の図書館にいくことになる。実家は冬の石油ストーブと炬燵くらいだったか。なので便利さでは劣っていると思うが、勉強する場所を固定化しなかったがために、流動的にその日その日で選ぶことができたのだと振り返る。

ちなみに、実家が悪い場所だとは思っていない。

実家は狭かった。たぶん小学校くらいの時期に自分の家が裕福ではないということを悟った。自分の部屋も兄の部屋も、親の部屋もなく、寝室と茶の間とも言い難い空間が一続きになっていた。友達の家に行くと毎回びっくりさせられた。家のなかに階段があったり、知らないドアがたくさんあるのだ。大家族物のテレビを見ているとなんだかその間取りに落ち着いたものである。とはいっても、家の狭さほど苦しい生活をした覚えはない。衣食住のパラメータ配分のバランスが悪かっただけだと自分も思っているし、家族もそんなことを言っていたような気がする。

図書館や自習室で、誰も見ていない環境下は集中するのに持って来いである。これに勝るような環境は、自分にとってはない。しかし、このような孤独な空間であれば、自分を奮い立たせることが難しくなる。調子がいい時はなんも気にしなくていいのだが、ひとたび切れてしまうとそこから戻すのが難しい。

そういう時に家という空間は働いたと思う。誰かがいるという事実は、別に自分のためだし誰かのために勉強をしているわけではないので直接的な効果はないのだけど(教えてくれるわけでもない)、誰かの目がある、ということに意味がある。とりわけ家族となると、私が数十分携帯をいじってると、勉強しろ、という直接的な言葉でなくても注意を変えてくれる。言葉でなくとも視線が、存在だけであってもそういう効果を発揮してくれる。これは決して他人にはできないことだし、同じ立場である受験生友達なんかにもできない。かかわりの薄い教師などにも難しいのではないかと思う。

どういう場所にもメリットとデメリットがそれぞれ溢れているのではないか。そうだとしたら、最善手としては流動的に場所を変えることなのではないだろうか。アウェーな場所で緊張感を保つのか、慣れ親しんだ場所で落ち着きじっくり進めるのか。それはその日ごとに選べるのだからそうすれば良いと主張したい。それが容易に、というか自然にできるのが孤独な受験という選択肢なのではないだろうか。

 

⑤休む時は休める

この辺はそのまま、特に説明する必要もない。塾予備校が固定的なスケジュールを組んでおり、そこに対して合わせるというスタイルを強いられる。いつの間にか課題をクリアするのが目一杯になってしまっている、というのがこのケースだと思う。これも突き詰めれば自己管理ができるのかどうか、という話になってしまうが、時には思いっきり緩めるということも大事だし、若い人間にはなおさら「効く」試みだと思う。それがいつでもできるのか否か、という違い。反対に、今日は思いっきり勉強するぞ!ということだって自由にできる。

 

⑥達成感が半端じゃない

これこそ一言で十分。これは間違いないし疑いようがないと思う。というわけでお願いだから疑わないで。

 

まとめ

まー長々と書いてしまったけど、昔から言われているように、勉強法というのは大量にあるし、結果成功できればどうでもいいからどうやったっていいと思う。人々が勉強法を今の時代になっても語りたがるのは、それが成功体験であり、自分自身の中で体系化することによって自分の学習パターンを勉強以外のところにも生かすため、ということなんだろうと考えている。ほかの人がどうかわからないけど、私は自分のために勉強法をまとめているし、ブログを書くという行動に関してもこの感覚に基づいている。自分のために自分が感覚的にやってきたことを文章化し、深層に隠されてしまっていた理由、動機、そういったなぜなにを掘り起こしていく。それが私のブログという書き方である。

とりあえず今回に関しては、塾や予備校という教育サービスにお金を払えば成績があがる、という単純式に対しての異論として書きたかったので書いた。だからこうすれば必ず成功する!とかそういうのではないのでわかってほしい。

 

 

 

読んでくださりありがとうございました。