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元意識高いブログ・晋也ジェネレーション

インターネットで何度も嘔吐した文系が、キュレーション、フォント、ファシリテーションとかの話をします。タイトルはBase Ball Bearさんの曲をもじったつもりがくりぃむANNリスナーの血が騒いでしまい・・・

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小学校低学年のころから馬鹿が嫌いだと思い始めた

嫌い

 

こんにちは。

 

先に言っちゃうとタイトルは釣り気味。

 

まとめみたいなことを先に書くとすれば、確かに、私は馬鹿が嫌いなんですが、それはもう出来ることなら関わりたくない、でもそれは上手い事いかないから仕方ないとも思っているのですが、

 

馬鹿とは関わらないぞ!ということよりも先に、誰が馬鹿で誰がそうじゃないのか、ということを見分けることが全然できっこないので、こう決意したところで意味がないなあ、ということをふざけた顔をぶら下げながら思っています。尊敬するべき人は誰か?誰についていけばいいのか?ということと同じで、この人について行くぞ!という人があっさりと崩れてしまうことだってあるし、正解が全く予測できない。こいつは止めておこう、という判断も、そうそう的中しないので、現実って厳しいなあ、という話になってしまいます、最終的には。

 

 

 

 

馬鹿とはどういう馬鹿か

 

馬鹿と言っても数多くの種類にわたって、馬鹿はいると思う。勉強が出来ないのか、人と人との間で渡り歩くのが苦手なのか、すぐ暴力に頼っちゃうのか、みっともないファッションに身を包んでいるのか、言わなくても良い事を言ってしまうのか、誰にも指摘されないことを良い事に暴走するのか、上履きをちゃんとはけないのか、外見を怖くすることが強さだと思っているのか、ちょっとの我慢も出来ないのか、SMAPの騒動に本気になってキムタクが悪者だ!とか叫んでいるのか、安倍って漢字さえ書けないのか、・・・

 

とまあ世の中には色んな馬鹿がいると思います。馬鹿って言おうと思えばの話ですが。多分、馬鹿を「妖怪」に言い換えてもあんまり違和感はない筈です。

 

それと、私は馬鹿という言葉を、頭が良いとか、頭がキレる、成績優秀などの言葉の大義としては置いていません。なんとなく分かってくれてると思います。

 

こう考えると、誰だって何かしらの馬鹿に当てはまるんだと思います。上には書いてないけど、良い意味で馬鹿、という見方もあるので、これも含めると馬鹿の渦から逃げられる人はそうそういないのです。本当に特徴がなんもない、という人は逃げられそうかな、いや、それはそれで馬鹿っぽいですね。

 

今私はエルレガーデンを聴きながらブログを作っているので、それも人によっては十分に馬鹿に出来る材料になりますね。

 

どういう馬鹿が嫌いなのか?という問いに対して、ズバッと回答出来ないというのが悔しいですが、いつも、とある個人を観て「こいつは馬鹿だな」と思っているので、事前にどういう馬鹿が嫌いなのか、ということを言い当てることはとっても難しいし、先に言ったところでどうせその通りにはいかないので、どんな馬鹿が嫌いなのか?これに関しては、フワっとさせたままにしています。

 

 

 

小学生の時の話

 

(「の」を連続させていると馬鹿っぽいですね。)

 

いつだったかと言うと、小学校3、4年のどっちかだったかな?たぶん3年かな?といううろ覚えなんですが、その時強烈に馬鹿って嫌だなーと思っていました。

 

社会かなんかの授業で、学校にある水道の蛇口の数を調べることになったんです。

 

今になって考えると、教員は「蛇口がいっぱいある!」ということを言わせたかったんだと思いますが、私は数を調べろという指令に対して、忠実に、真剣にやるぞ!となんだかすっごいやる気がありました。珍しく。

 

しかし、完璧に数えてやろう、と思っても、時間の制約、教員と一緒に歩かなければならないこと、そして何より入れない場所が幾つかあるということなどの障害によって、探索を始めてから早い段階で、正確な答えには辿り着けないことが分かってしまいました。それでも、本当になんでやる気があったのかは謎なんですが、出来るところまではやってやろうと思っていました。

 

4階建ての校舎で、どの階も似たような造りをしていたため、1つのフロアだけ探索すれば自然と他の階層に関しても予測ができるようになっていたため、1階を集中して探索することにしました。

 

数か所ある水道場を見て数えた後、まだまだ探索できる水道場があることに気づきました。それはトイレでした。トイレにも勿論蛇口はあるので、男子トイレに入って数えました。そして、同じ階層にある男子トイレの数だけ掛け算をしました。

 

さらに、私は閃いたことを思わず口に出しました。すごくいいアイデアだと思ったので、聞いた誰かが褒めてくれるかもしれない、と期待していたのですが、これがいけなかった。

 

「女子トイレの分も足しておかなくちゃ」

 

これに対して、クラスメイトは、女子トイレに入ったの?!というリアクションを取ってきました。小学生の勢いでは、こうなってしまっては、入りかかったスイッチを食い止めることはもうできません。あれよあれよという間に、私は「女子トイレに足を踏み入れたド変態」ということになってしまいました。からかってきた人たちの中には、本当に私が女子トイレに入ったということになっている人もいるかもしれません。

 

しかし、当たり前ですが、私は女子トイレに入っていないのです。男子トイレに水道の蛇口があるなら、当然女子トイレにもあるはずだ、ということを考え付いて、中の構造は、もしかしたら違うかもしれないけど、入ることは流石に出来ないから、男子トイレと同じ蛇口の数だということにして、数をプラスしておこう、という風に考えていただけだのったのです。

 

私の弁明を聞く気は全くなく、突然始まった祭りに訳も分からず加わる小学生。誰がどうしてこうなったのか、誰かを叱る必要もあるのか、騒ぎの内容さえも聞こうとせずとりあえず宥めようとする教員。私は当時から変な奴だったり、(今でも)キレ易い性格の持ち主で、度々問題を起こしていましたが、この光景は私にとって地獄に他なりませんでした。

 

今でも、少しでも予兆のようなものを感じると、その時の光景、雰囲気、匂いのようなものがフラッシュバックして、目を逸らしたい気持ちになります。そして、この体験から、急激に、「馬鹿」が嫌いになりました。

 

出来事自体は大したこともないし、ただの笑い話と思われても仕方ないのですが、自分の言葉に対して、ひとりふたりが私をからかうチャンスを感じ取り、私が食い止める隙も無く、次々と人が加わり「祭り」が始まっていくあの段階、あの光景、あの流れがとにかく、今でも恐ろしいものとして記憶に残っています。なんの解決も救いもなかった、ということも原因かもしれません。

 

 

 

小学生の私はこのトラウマめいたことを回避するために、こいつらは馬鹿なんだ、馬鹿だから話が通じないんだ、馬鹿だから女子(男子)トイレの水道の蛇口の数を足し合わせるというアイデアさえも浮かばないんだ、他人を馬鹿にすることばっかり楽しいんだ、だから私とは感覚が合わないのは当然だ、と思い込むことにしました。適切な防御方法とは言えませんが、とにかくこうするしかない、と決意していました。

 

その感覚は今でもそこまで変わっていないのかな、と思います。そこまでに極端ではありませんが、根っこの部分では同じようなことを考えていると思います。自分には合わない世界なんだ、自分に向けられた世界ではないんだ、と諦めるようにしています。それが「馬鹿だから近づかないようにしよう」という言葉に集約されています。


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