Yuigo・ん・・・湿っぽい

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10000字(いってない)ブログ4/13号


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10000字ブログ4月13日号

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おはようございます。こんにちは。なおかつ、こんばんは。「ぞ!」です。

久しぶりに、10000字ブログを書いていこうと思っています。最近は短い文ばかり書いているので、どのくらい時間がかかるかわかりません。書き始めから1週間は、もしかしたらかかってしまうかもしれないので、そこはごめんなさい。

 

さてさて、なぜこのタイミングで書こうと思ったかと言いますと、大学の新学期が始まる直前だということ(少し始まるのが遅いのです)、そして、私の誕生日が4月某日である、ということをいい区切りとして、新しく前を向くために、自分の感情を整理していきたいと思いました。それと同時に、様々な問いかけを挟んでいこうかと考えています。J-WAVEを聴きながら、クリエイティブな気持ちでクリエイティブに(出来るかはわかりませんが)書いていきます。

 

 

 

「今日をもって、私は復活しました」

 

●春休み中、2月の中間くらいから、読者の皆様、知人の皆様には何かと心配させてしまうことが多かったように思います。改めて言わなければ話の内容が掴めないと思いますので簡単に書きますと、私は軽いうつ病と診断され、春休みは「何もしない」ということをしていました。これが、抗うつ剤の使用とならぶ治療の柱であったため、私は必死で「何もしない」していました。起きて、太陽を浴び、家事をこなし、食事の買い出しをして、ぼーっとして、そして、家事をして、寝る。時間がゆっくりと流れて、しかし(考えるという行為が弱ってしまっているので)何を考えるでもなく過ごす1ヶ月強の時間は、今までにない種類の、しかし、大切なものでえあったのだな、と、振り返ると感じます。その期間を経ることで、再び活動的な生活を送りたい、多様な経験をして自分の頭の中をいい意味でかき混ぜたい、沢山の人と言葉を交差させたい、という思いが強くなりました。こう思ったことは、おそらくここ半年はなかったことだと思います。

○私は、自宅療養(というほど大それたものではありませんが)をしていた以前から、私が自分の状態をおかしいと思いながら何も出来なかった半年前から、考えるという行為にかんして随分と臆病になっていたのだと感じます。なぜ嫌になってしまったのか、どうして何もしたくない、誰とも関わりたくない、と思ってしまったのかはわかりません。何しろ、成人の18%は、症状の重さに大小はありますが、経験する病気がこれであり、この病気は、なにかトラウマが関連してとか、誰かの言葉や経験が引き金となってあらわれるものではなく、砕けた言い方をしてしまえば、運悪く病人となってしまったのかも知れません。いや、この世にはもっと重大な病気や現実と戦っている、向き合っている、共存している人が居る中で、私は運に関しては良い方なのでは?と考えることも、最近は、あります。

○過去の自分は、自分をこのような状態に追い込んでしまった、自分のせいで自分は大学生の貴重な長期休暇をフイにしてしまったのですが、私は、状態が回復するに従って、過去の自分は、確かに自分をここまで追い詰めたけれども、自分の回復にも一役買った、ということに気づきました(あんまり、「気づき」って言葉は使いたくないのですが)。

○様々な人に心配をかけ、迷惑をかけてしまった自分ですが、それだけ、私はおおくの人たちの思慮をいただきました。テレビや本などで紹介されることが多くなってきたこの類の病気ですが、その影響か、私に関係する人が、この場合はそっとしておいたほうがいいのか、しっかりと励ましたほうが良いのか、症状については話に出さないほうがいいのか、悩んだり、考えたり、難しく思っている、そんな様子が、どことなく伝わってきたように感じます。そのことは、とても申し訳なくて、とても嬉しいことでした。自分はこのような関係図を持っていたんだ、ということを思い出しました。最近になって、やっとそのようなことが明確にわかるようになりました。そして、過去の自分は今このような状態にある自分を作った、ということは、マイナスの意味に見えていましたが、視点を変えれば、プラスにも見えてくる、ということだったのだ、ということがわかりました。

○以前見た映画のセリフに、「すべての過去の自分で、今現在の自分ができている。」という内容のものがありました。私は、昨日と今日で人が変わる、生まれ変わる、ということはない、急激に成長したりすることはないのだ、と思います。過去の自分の積み重ねという期待に、私は答えていかなければならない、なぜなら、私は時間という空間を通じてつながっているからだ、と悟りました。一瞬一瞬で、私同士がバトンの受け渡しをしている、だから、当然のようにこれからも私はバトンを渡していくのである、と考えています。

○また、『化物/星野源』という曲には、このような歌詞があります。『思い描くものになりたいと願えば/地獄の底から次の僕が這い上がるぜ』。私が自分をぞ!つまりZOMBIEと自称するきっかけのひとつであるこの曲にも、回復の手がかりが存在していました。余計な解説は必要ないと思いますので、次。

○このようなことを私に考えさせてくれたのは、やはり、私がいつの間にか関係を持ってきた人たちなのであると思います。これは、感謝してもしきれないことなのだ、と考えます。ホントにありがとうございます。書いていて泣きそうです。

○そんなこんなで、私は復活しました。いつの間にか薬を服用せずとも眠りにつけるようになり、しっかりとポジティブな感情を保つことが出来るようになっています(ひどいときは何をしても最悪の考え方をしてしまっていたので)。私は復活しました。久しぶりに詩も書けるようになりました。暗い言葉を重ねることが多いですが、そういうときは決まって、自分の調子はすこぶるいいときです。

○大げさなことばかり言っていますが、少し前まで無かった「生きている」という感覚が、私を包んでいて、とは言ってもその感覚は私から発生していて、つまりは、私の周りで「生きている」がグルグルと循環しているのであると思います。この感覚は本当に久しぶりで、その前のときは、私は色々なことを、障害とか、実現可能性とか、そういう制約は全く考えずに、自由に設計していました。その感覚が、およそ1年ぶりに帰ってきたような気がします。この感情で新学期を迎えられそうなこと、やはり、皆様のおかげであると思います。

○アルバイトに関しては、今までのものとはお別れをする決断をして、全く異なる種類のしごとを始めました。様々な「考える」に会ってみたいので、3つのアルバイトを少しずつしていくことにしました。その内容に触れることは、今はしませんが、コミュニケーションを要求されるしごと、体を動かすしごと、喧騒に佇む仕事、やはり、その内容も様々です。しかし、どれも少しずつはたらくので、ストレスのようなものは抱えずに済みそうです。

○私は復活しました。そういうことです。

 

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「テーマ:『する側』の人間になる。」

 

●ネガティブであった私は、どこか批判者として、「そこ」から動かずにすべてのことを済ませようとしていたのではないか、と考えるようになりました。

○現在、世の中には、沢山の批判者が存在していて、批判者となることができる方法も、急速に充実をみせていると考えています。その代表格がSNSを中心としたネット社会の普及です。ネットデザイナーのたゆまぬ努力によって、ITに関する知識が豊富とは言えない人であっても、自分の意見を表現すること、発信することが簡単になってきました。私はこのように思う、という感情が、例えばTwitter、各ゾーンに用意された「コメント欄」、様々な方法によって、私たちは出来事、発言、結果について言葉を送ることができます。イメージを挙げれば、今までワイドショーのコメンテーターが担っていた役割を、限られた人間ではなく、殆どすべての人が担当することが出来るようになった、それがいまの社会であるのです。

○その変化によって、行動者であるよりもずっと、批判者として社会に存在することが簡単になったのです。元々、私の考えとして、人間を行動者と批判者の2つに分けていて、行動者は社会に対し、上述の「出来事、発言、結果」を届ける立場であります。そして、批判者は、先程も書いたとおり、それらの事象に対してコメントを送る立場、という風に分けることができます。もちろん、場面、場面によってひとりの人間は立場を変えることができ、常にその立ち位置には、変化の可能性があります。

○批判者について掘り下げると、批判には、これも2種類存在すると考えます。その批判の内容が、「Good」「Bad」のうちいずれか、ということです。批判、といっても、「出来事、発言、結果」への反応は、決してネガティブなものだけ、とは限りません。もちろん、賞賛のメッセージを送ることだって、十分に考えられるわけです。スポーツニュースへの反応は、その違いがわかりやすくあらわれます。

○そして、私は、この2種のうち、「Bad」の批判者が急増したように見えてなりませんし、そのことを問題視しています。ネットが普及して、様々なコメント欄を見ても、賞賛すべき「出来事、発言、結果」に対しては反応が薄く、反対にネガティブな「出来事、発言、結果」に対しては、待ち構えたかのように、振りかぶってBadを投げつける、そのような性格を持ったコメントを見ることが多くなりました。本当は、どちらも均等に投げられているのかも知れません。しかし、どうしてか、Badの方が目についてしまいます。方法がわかればその真相を確かめたいところです。

○このBadコメント隆盛時代(と仮定します)になると、行動者は行動することに対する恐怖を抱いてしまうのではないか、もし行動するにしても、その行動が正当に批判されないのではないか、という考えを持つようになります。Badの増加、Badが目立つことによって、行動者は減少してしまうのではないか、という恐れを、私は抱くようになりました。

○砕けた表現で言い直しますと、ディスプレイの前にふんぞり返って、TwitterにBadをつぶやく人、同調する内容の投稿をワンボタンでシェアする人、まとめサイトのBadコメントを、いつの間にか自分の感情と同期させてしまう人・・・このような人が、どんどん増えているのではないか、と危惧しています。なにより、ネガティブな私がまさに、そのようなBadコメンテーターであったのです。

○このような社会は、いつしか「出来事、発言、結果」を生み出すことが出来なくなる社会を作り出してしまうのではないか、と思います。誰もが尻込みをしてしまう時代。大げさに思うかもしれないし、まあ、大げさなのですが、「行動者は誰かに任せればいいのではないか?」と言う人はどんどん増えていくと思います。ひとりがそう思っているということは、もうひとりはそう思っていない、ということにはなりません。反対にも言えることです。

○この風潮は、ネットの普及状態から見ても、簡単にはおさまらないと思います。出る杭を打つどころか、出る杭を埋めるような社会に向かっていくと思います。これはもしかしたら仕方のないことかも知れません。社会を変えることは簡単ではないのです。しかし、私たちは個人の活動として、ひとりひとりが行動者として立ち振る舞うという選択をすること、これは可能なのではないか、と考えています。

○行動者が少ない状態では、言い換えれば行動者は貴重な存在です。批判者が多いので、おおくの目を引きつけることができます。Badコメンテーターが多いのだから、それは過酷なのでは、と思うかもしれませんが、先程も申しましたとおり、批判者は常にその立場を変えることができます。「テノヒラクルー」です(笑)。確かにこの状況下で行動者として活動するのは厳しい選択に見えますが、Goodメッセージを受け取るチャンスは存在する、そして、一度Goodを受けることがあれば、Goodの規模はとてつもなく大きくなるのでは、と私は考えています。

○そして、なにより、批判者であるよりもずっと、行動者であるほうが、考えるという作業に真摯に向かうことができるのではないか、と考えます。批判者は「出来事、発言、結果」に反応するということにおいて考えを巡らせるので、その発想に関しては、範囲が限られてしまいます。しかし、行動者というのは、その思考に範囲がありません。ときにはゼロからものや言葉を作っていくので、頭の回転数はずっと多いはずです。

○以上のことを踏まえて、私は批判者で留まるよりも行動者として動いていくことのほうが、人生において有益であると考えます。

○また、ここで注意したいのが、批判という行為に関しても、そのクオリティには違いが見られるということです。「出来事、発言、結果」に反応する、という意味では変わりませんが、批判者であることを仕事として収入を得ている人々は、前述したアマチュア色の強い批判者よりも多く考えた上でそのコメントを発しているということです。映画のコメンテーター、社会学者、その例を挙げればきりがありませんが、彼らはアマチュア批判者のようにインスタントな批判をすることはしません。プロフェッショナルな批判者は、行動者と同等、またはそれ以上に思考をはたらかせてメッセージを作り上げている、と言えるでしょう。その意味では、混同の恐れがありますが、彼らもまた行動者と位置づけることができるかも知れない。

 

●行動者と批判者という2つの立場に分けて考えてみましたが、以上のように私は考え、私は行動者として立ち振舞ってみたい、という風に結論づけました。長くアマチュア批判者として過ごしてきましたが、やっぱり行動することによって自分の周辺だけでもいいから「問い」を投げかけたい、そして、共鳴してくれる人たちと共に、その問いについて考えていきたい、と思います。その考えの表現として、様々な場所に赴くことができれば、と考えています。そして、自分の周りにも行動者を増やして行きたいと考えます。そっちのほうが、ずっと楽しそうだと思うからです。簡単で危険な理由かもしれませんが、私はそのように思っています。私がサボっていたら、容赦なくひっぱたいてください(笑)。

 

 

 

「はたらきかた研究研究生」

 

●今年の4月から画策していたアルバイトの掛け持ち作戦が、早くも窮地に立たされています。書店の選考に漏れてしまいました。履歴書を返されてしまい、平日のアルバイト日程が埋まらない、というピンチに置かれています。一人暮らしということもあり、生計を立てつつ貯金をして、長期休暇の軍資金にしなければならないのですが、なかなか上手くは行きません。平日と休日含め週に2日からでも働かせてくれるところを探しています。沢山同じ職場で働けない、というネックがどうしても存在しているのですが、多種の仕事をしてみたい、という希望があるので、この条件で再び探してみることにします。とかいう近況報告です。しばらくは土日を派遣アルバイトで埋め尽くす生活スタイルが続きそうですね。しかし、これだと平日の空いた時間をうまく使うことが求められます。自分はこれが苦手です…。というわけで、知人のツテ、というやつに託してみることにします。

 

 

 

「当ブログの雑多な内容について」

 

●私のブログは、その内容が散らかっている、ということは自覚しています。雑談にはじまり、【端】、趣味に関連した話(基本は書体・カリグラフィの話、これから更に広がります)、近況報告、そして作詩。そんなこんなで、一体何をテーマとしているのか、というのはなかなか分かり兼ねるところではあると思われます。

○というのも、当ブログは「私のノートがなんだか知らないけれどネットに上がっちゃっている」という捉え方をして頂ければ幸いで、ひとりの人間は、それはそれは様々な方向に思考の食指を伸ばしているのですから、このようなテーマでブログを展開するとこのような結果になるよね、ということなのです。どういうことなの?

○私は、その性格は今とは異なるものの、数年前からブログ、もとより文章の投稿をしており、その中心は自身の作詩になっていました。それはいまでも(心情としては)変わらないことで、自身で作り上げたもののうち、だいたい半数弱がネットに公開されています。その質というものは、やはり自分で誇れるものではありません。自分で勉強をしているわけでもなく、技法とかテクニックなども兼ね備えている訳ではありません。それでもこうして続けられている、ということには、それなりの理由があるのだ、と思っています。

○私は、最も保存しなければならない言葉、というのは自分自身の言葉である、と考えています。それは、ナルシシズムも含まれているのかも知れませんが、他人の言葉よりも自身の言葉、つまり考えを記憶しておかなければ、自分の行動におけるクオリティそのものに悪影響を及ぼしてしまう、ということに理由があるのであると考えています。最近になって特に感じるのですが、これは一人暮らしをしているからこその現象かもしれませんが、「明日にはこれこれをしよう」という決意は、何だかよくわかりませんが、簡単に忘れられてしまうことが多い、ということです。これには、タスク管理を自分の頭の中よりも外部(ノート、手帳、アプリ、壁のホワイトボードなど)に押し付けている私の生活スタイルに原因があるのかもしれませんが、私は、「忘れる」理由には、自分の言葉を外部に発し跳ね返ってきたものを手に取る、という作業を怠っているからなのではないか、と考えるようになりました。自分の決意やアイデアというものは、内部に浮かべるだけでは発想には至らないのではないか、ということです。内部に取り込み直す、という作業が重要性を持っているのかも知れません。これに対して、外部の情報は、それを内部に取り込む、という作業が必須となっていますから、取り込みさえすれば忘れることはないのかも知れません。あくまで推測です。

○私は外部の情報よりも、(その情報の原因が外部か内部かはわかりませんが)内部の情報、つまり自身の考えを重要視していますが、それは、私が以前より、自己中な性格も一役買ってか、自分の内部から出される情報を外部の壁に反射させることで保存していたからなのかも知れません。その主な方法が作詩であったのであると思います。これは、例えば、同じように情報を外部の壁に反射させる方法として「日記を書く」というものが普遍的に見られますが、日記という文章の形式で綴られるものが、マインドマップのようには簡略化されず、抽象的な短文の連続によって感情や社会を表現する詩という形式に変換された、という風に考えていただければ幸いです。

○以前は、詩は自分の感情とは違うフィールドのものなのかな、と考えていたのですが、見返していると、その感覚は照れ隠しのようなもので、しっかりと自分自身の感情が、ダムのように大半を咳止めながら少し漏れ出していました。この方法が、私の保存方法なのかもしれないな、と、推計300以上の駄作を経てやっと見えてきました。ああ、昔はモ×ゲーにも投稿していたなあ…viewは500を達成していたのですが、もしかしたら誰かが私にいたずらを仕掛けるために見ていたのかも知れません。こころあたりがあるので、おそらくそうだ、と思っています。

○それで、最近はやっと詩の作業が再開出来るようになってきました。自分を保存しよう、という向きが戻ってきた、ということでもありました。外部に興味が戻ってくると、次第に内部にも光が当たってくるようになるのだと、気づかされました。いつもどおり、よくわからない駄作だとは承知しているのですが、一部が時折当ブログにも登場します。

 

 

 

「止まって見える大学」

 

●【端】の要素が強い文章を、最後に書いていこうと思います。あと2,000字なので、もしかしたら最後にならないかも知れません。あまり下書きをしていないので、内容が自分でも読めないのです。

○2月頭にあった大学の改革に向けたシンポジウム(テストもかさなり心身ともに疲弊した中、学生パネリストとして参加してきました)では、私の大学に対する物足りなさ、さみしさというものを大きく感じる結果となりました。そして、この新年度にも、そのような感情を感じることになりました。

○おかげさまで全国の他大学に知り合いが居る私ですが、いくつかの大学では、学生主体による、国際貢献やソーシャルな役割をもった「サークル・団体の合同説明会」というものがあることを知っています。この説明会というものが、なかなか大きな規模を誇っている(ように写真では見えました)ので、私の大学はどうなのだろう、と思うのですが、当大学の説明会はまだまだ小規模であり、一般的なサークルや部活の陰にかくれ、ひっそりと勧誘をしているなあ、と感じます。これが、そのまま団体の価値や力を表しているとは考えていません。勧誘が下手だからといって、活動までお察し、ということには繋がらないはずです。しかし、上述した団体は、その活躍ぶりを伝えることに関してはまだまだ成長の余地がある、と考えています。また、私のいる大学は、就職活動に対する意欲が薄く見えますが、これは、このような団体の認知度が低く、それが、就活シーズンに突入する前から社会に対する視点をもつことに関心を持たないことに関連しているのではないか、と思います。

○私は、かような団体が集まり、新入生に対する勧誘が始まるような日に構内の中心にて大規模な宣伝活動をする権利がある、またその必要性がある、と感じています。できればこれはイベント化し、ショーアップした形で伝えたい。そうすれば、真面目な人だけに許された活動、という色眼鏡はきっと外されることだろう、と考えているからです。最近考え始めたことなので、これを実現に結び付けられるか、賛同してくれる人が出てくるかはわかりません。私自身も、このようなことを書いていますが、「意識高い(笑)大学生」がとても嫌いなので、相いれそうで相容れない部分が出てくるかと思います。それでも、大学に顕在する自覚のない混沌を解消したい、と考えています。

 

(結局あと1000字足りなくなっちゃっているのですが、今日中に書けそうにも無いのでここで終わりにさせていただきます。次回はちゃんとやりますから・・・。)

 

読んでくださりありがとうございます。


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