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Yuigo・ん・・・湿っぽい

最近の話題はラジオ。賛否のど真ん中を行く性格です。

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【雑】どうして僕は、いまこうなのか


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訪問ありがとうございます。

 

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今日の文章に関して先に言っておくと、自分のことを考えているものになると思います。簡単に言えば自己分析。よくわからなくなったときにやっていることを、文章を書くという表現方法で自分を整理しています。これまでも、ときどきやっていたことです。

 

 

本当は、今日もだらだらと書いていこうかな、と思ったのです。運動もして、気持ちも健康的になり、そしたら今日は、新しいフリーフォントをいくつかインストールしたので、それを紹介できたら、とか考えてウッキウキだったのですが、いつの間にかそうもいかなくなってしまったのです。

そうもいかなくなった引き金となったのは、誰かのツイート(別アカウントのものです)でした。それは、「公務員試験の勉強、大変だけど頑張るぞ」といったニュアンスのものでした。この類のつぶやきなんていっつも見ているのですが、今日だけは、自分の感情と相まって、なんだか異質に見えてしまったのです。

 

「自分」として、選ばれたい

 

憶測で語っているし、実際にその声を聞いたわけではないから、なんとも書きづらいところがありますが、ひとりの人間の勝手ととらえて聞き流してください。

 

 

私は、早急に公務員になることを、自分の選択肢から消してしまいました。もしかしたらとても魅力的な職業であるかもしれないし、Facebookでも、楽しそうに公務員を全うしている先輩の投稿を見ることがあります。そもそも、公務員なんて一緒くたに捉えることが出来ない生き方である、ということも大前提にあるし、簡単に公務員は違うな、ということは出来ません。

私の学科は、多くの学生が公務員試験を目指して、少し前から、大学のものとは少し異なる勉強を始めています。大学の勉強と重なるところもあるかもしれないけれど、それは受験という目的のためにはないものなので、やっぱり、違うと言ったほうがいいのかもしれません。

私がどうして公務員を外したのか、それは、「受験をする」という行為に対しての疑問が強かった、これが大きな理由になるんだろうな、と、自分のこれまでを振り返ってまとめています。

 

 

私はこんなことを言っていますが、受験に大失敗した、というわけではありません。むしろ、受験には成功している部類であると言うことができます。

中学から高校へ行く受験では、3ヶ月くらい前に急に成績が伸び始め、親にも先生にももっと高いクラスの公立校を望まれていたし直接言われていたのですが、自分の成績を過信してはならないと、今考えれば落ちるというリスクをずっと大きく考えすぎていたんだろうな、このように考えて、結局はその望まれた公立校よりも2、3校(偏差値として)格下げした公立校に願書を出し、クラスメイトよりも早いタイミングで、合格という形で受験生を辞めました。

大学受験のときは、あまり高校の雰囲気というか風土に共感できないところがあったので、周りが受けないようなところ、受けても落ちるだろうところに合格して、心の中だけでも高校というコミュニティすべてを嘲笑ってあげよう、と考えて、いまの国立大学を志望することにしました。勉強の過程というのは、とても孤独でした。このころには両親も自分に対して放任的になっており、生徒指導の教員とは考え方が合わなかった(他人事に考えているんだろうな、というのが露骨に感じられてしまった)ので、やはり自分で自分のことを考えることが、受験勉強の大半でした。そして、今考えてみれば、特に大きな障害もなく合格したと思います。予想通り、高校という関係性からは逃れることができたのだと思います。

こんな感じで簡単に振り返ってみましたが、2回の受験に共通していたのが、かなり孤独に勉強をしていたな、ということでした。

自分は塾とか予備校に行っていませんでした、いまでもそういったところにはお世話になっていません。学校じゃないところでまた勉強をする、という行為がとても気持ち悪く感じられたこと、そんな幼いときの思い出をずっと引きずってきた結果でした。もうそこまでの嫌悪感は持っていないのですが。

なので、私は受験生のとき、短いスパンで頻繁に本屋に通っていました。そこで参考書をあさり、「塾に行っていないから結局安いだろ」という安易な考え方によってどんどん参考書や問題集、家でできる模擬試験問題を買い込んでいました。受験をやめるときに整理していると、あ、これ全然使ってないじゃん、という本を大量に見つけてしまったことを鮮明に憶えています。一種の参考書マニアでした。一人暮らしの部屋にも、幾冊か持ち込んでいます。使いはしません。

こうやって書くと、何だ、満喫しているじゃないか、と思われるでしょうが、自分としてはそのようなことは思っていません。

 

 

受験をしているときの自分は自分だっただろうか、と考えてみると、やっぱり違うよなあ、と思ってしまいます。他にものさしがないから、仕方なく、自分の学校の学生を選出するものさしに5教科だったり5教科7科目を使っているようなきがする、そのように私は感じてしまい、そして、私自身に対しても、受験勉強をしている自分、というものに魅力はないなあ、と感じていました。そういえば、勉強をしているときの姿が妙にサマになっているひとを何人か見たことがあります。彼らはいま、なにをやっているのか。

まるで、自分のなかに、「合格するために作られた『受験勉強くん』」を造っている作業だ、そのように、私は思うようになってきました。野菜を切る包丁のような、道を調べる携帯のなかにあるGoogleMapsのような、確かに使っているのは自分だけど、これを自分とは言えないなあ、という感覚を抱いていました。評価されているのも自分ではなく、『受験勉強くん』なのです。ボケモンを育てるポケモントレーナーでも、その育てる手腕を評価される余地がありますが、受験に関しては『受験勉強くん』だけを見られ、それを持っている自分自身は名前だけの存在、名付け親として横に付き添っているだけ、というふうに感じていました。なんか違うなあ、というふうに。勉強しているのはあなたじゃないか、と言われるかもしれませんが、やはり、違和感が拭えなくなってくる。

 

その点を踏まえると、私は就職活動という過程のなかに、私そのものを評価してもらうことを期待しているのかもしれません。いうなれば、これまでの人生がすべて評価対象になっているということです。そりゃあ、自己アピールしだいで悪い部分を隠したり、いい部分を大写しにすることは可能です。正しく評価されないかもしれません。それでも、受験勉強よりはいいのかな、そんなふうに考えています。

そもそも、私は、群衆の考え方からつねに逸れている人間だったし、言うとおりにすることを負けと考える癖もあったので、お金とかそういう制約がなかったら、デザインだったり、クリエイティヴなしごとをするための進路に進みたいなあ、と考えていましたが、そこに行けなかった時のリスクを、今考えれば過大評価して、そっちは見ないようにしていました。人生がやり直せるなら美大に行く準備運動をしたいです。でももう戻れないので、自分として勝負することにこだわり、執着を持っているのかもしれません。

 

 

こんなこともあってか、今日はこんな感じで書いてみました。長くなってしまいました。

 

読んでくださりありがとうございます。


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