Yuigo・ん・・・湿っぽい

モルック、システムエンジニア、その他趣味。大学生のころから使っているので、昔の記事は恥ずかしいし今の思想とは異なっていることが多いです。

(自分用メモ)自分の10年

Twitterで半月前だかに10年を振り返る、みたいなタグが出回っていた。1年毎にトピックスを1行で書く、というものだったが、自分が書くとなると消化不良になってしまうので、ブログに書くことにした。

消化不良、ということに関しては、自分はTwitterを自己との対話として使っていて、誰かに見せるとか興味を持ってもらうことは諦めているので、だったら1年を1行というのは書き足りなくなること間違いないだろう、ということ。

そういえばブログが久しぶりになっているが、最近はモルックというスポーツにハマっていた。マイナースポーツ、もといベンチャースポーツという呼び方を最近するそうだけど、その中の一つ。一言でいうと「木の棒を投げて木の棒を倒す」というシンプルなもので、老若男女、障害を持つ方などでも誰でもできるというのがウリです。モルックについては、別途書いているのでそちらをを参照。

モルックを1ヶ月みっちりやってみて | Yuigo・ん・・・湿っぽい

16歳

高校に入学した。自分はとても前歯が出ていて(前にも出ているし下方向にも出ている)、小学校はそれで嫌がらせを受けることも多かったが、中学校では少しずつ返し方やおもしろへの昇華方法を身につけ、高校ではある程度固まったマニュアルを活かしてやろうと思っていたものの、入学後は全くいじられることなくそのまま現在まで来ている。せっかくカウンターの方法を覚えて「やり返し」をしようと思っていたのに、その機会が一切来なかった、というのは今考えると少し理不尽にも感じる。

前々からやってみたかったので軽音楽同好会に入りギターを始めた。とはいっても、大学に入るための勉強をする期間だというのが本心だったので、あまり真剣に練習することはなかった。文化祭などのライブで全然うまく行かなかったので、そういう辱めを経てやっとこちゃんとやろうかな、という気になってエフェクターを買ったり教本を読み始めたりした。

17歳

高校のときはBase Ball Bearが本当に好きだった。17歳のことを彼らは「レモン齧ったような季節」と例えていて、彼ら自身高校生活を満喫していたわけではなかった(からこそ『BREEEEZE GIRL』のような青春マンキンの曲を作ったりしていた)ので、自分もそれでいいのかなと思って常に下を向きながら生活していた。

そういえばBBBにハマったのは『完全版「バンドBのすべて」』からだった。たまたま『十七歳』『C』と一緒にGEOで借りて、なぜかインディー時代のベスト盤から聴き出したのは偶然のそれである。たぶん永遠にテレキャスターのギラギラを耳にしまって生きていくんだろう。

自分が教室の中で1.5軍であるという自覚を持ち始めて、数少ない1.5軍仲間にそれを提唱し始めた。クラスの中心でワイガヤできる1軍でもなく、モテたり人気者になったりはしないが彼ら独自の生活を楽しむことができる2軍でもなく、そのどちらにも馴染めないが省かれているわけではないのですんなり生きて行けているように見えている、そんな1.5軍として生活していた。行事などの際にグループ分けをする際はスムーズに人数合わせを敢行し、誰とでも外交ができるようにしておく。自分からはたくさん話さないが、会話が始まったら快活を装う。こういった点は今でも続いている自分自身の嫌いな性格だ。

文化祭は実行委員として運営に携わっていた。絵を描くのが好きだったので、入場門のデザインをすることにした。学校によってはここにかなりの労力をかけていたりするが、自分たちには人員も期間も限られていたので、その中でなんとかやりくりしたつもりだった。文化祭のあと、よくわからないOBに「ここ最近で一番出来の悪い入場門だった」と言われたことで、デザインをする職業を目指すのはもうやめよう、という決断をした。今考えるとよくわからない人間の一言で決めたのは後悔ポイントであるものの、それくらいの言葉で止めるような希望だったのかな、とも思える。いずれにしても過去の本心はもうわからない。

軽音のライブは楽しかった。相変わらず本気で練習はできていなかったので(本来ならボーカルが歌いながら弾く)サイドギターしかできなかったが、出番が終わってブワッと汗が出て、外に出たら一気に涼しくなっていて、自販機の炭酸ペットボトルを1口で半分くらい飲んだときの感覚はなんとなく覚えている。

18歳

学年全体として受験をするようになり、校舎から離れた武道場に集められて進研ゼミの人間からよく分からない説教を受けていたが、進研模試の結果は全く参考にならないということを感覚的に知っていたので、公立高校とベネッセの取引に付き合わされている不快感をよく覚えている。

決して無理をして負荷をかけるような勉強をしていなかったが、定期的な模試の度に徐々に成績が上がっていき、最終的には高校では歴代でも1桁しか合格者のいない大学に受かった。塾や予備校にお金を使わずに、受験のためにじゃぶじゃぶお金をつぎ込む人々よりもいい成績が取れた、ということのほうが合格自体よりも嬉しかった。

奨学金の申請結果を受け取った際に、ほとんどの人は第2種という利子付きなら貸しますよ、という結果だったのに対して、クラスで自分を含めた2人くらい(全員に聞いたわけではないので正確ではない)が第1種という利子なしで貸してくれる制度に選ばれたことがあった。結果その奨学金を借り、今は返済中なのだが、漠然と感じていた実家の経済状況を客観的に評価されたのが初めてだったので印象深かった。

ある程度の大学へ行き、ある程度の就職先に行くことで、なんとかして世に言う普通の生活を手に入れることができるんだ、という安心感をやっと得られたような気がしていた。高校生なのに青春をしていないこと、好きな人がいないこと、夢がないこと、そういう世間一般との共感ができないことについて日々追い込まれていた重みがどこかに行った気がした。

そういえばこのくらいからまとめサイトを見なくなった。今でも『痛いニュース』を定期的に見ている生活をしていたら…と思うとゾッとするとともに、今もそのサイトが存続していることについても恐怖感がある。反面、もしかしたらそこに浸かったままであれば、単純な多数派人間として苦労することなく他人との間に溶け込めたのかもしれない…と考えて、そんなわけはないよな、と振り払った。『はてなブックマーク』がメイン情報源になっている今も十分偏っているのだが。

19歳

大学に入学する。引き続き具体的な目標を持たず、平均点以上を維持していれば自ずと中流に乗っかることができるだろうと漠然と安心感を持っていた。勉強はほどほどに、就活には必要だと言われていたサークル活動や学内の委員会活動、NPO法人の大学支部に入ったりしてみた。基準としてはある程度真面目で、理不尽やアルコールハラスメントがないことくらいだったので活動内容そのものについてはそこまで興味がなかった。それでもたまにある飲み会でだいたい後味が悪かったので、自分はもう酒席と縁がないんだろうな、と改めて決意しながらこれを書いている。

自分史上最大の人間関係が出来ていた時期でもあったと思う。コミュニティごとに自分に対してまったく異なる印象を持たれていたのが印象的で、性格なんてものは自分を構成する一部でしかないんだな、実際には人との関わりによって自分が形成されて変化するんだな、という普遍的なことを実感できた時間だった。

震災のボランティアをして、瓦礫の掃除をしていたのを覚えている。およそ予想だにしないモノが地中に埋まっていて、エアコンの換気扇が掘り出されたときは周りの大学生となぜか歓声をあげたことを覚えている。震災自体は悲しいし忘れてはならないことだが、復興に向けて歩を進める中では、瓦礫がなくなり地表が見えること、道ができること、散乱した岩が積み上がることに対して達成感を感じたり、喜んだりしても良いんだ、と思ったことが、たった今記憶の隅から引っ張り出されてきた。ボランティア当日に知り合った年上の先輩と海に向かって立ちションしたのを覚えている。そういえば「男の子っぽい」ことをしたのはこれが最後かもしれない。

唯一と言っていいくらい嫌だったのはアルバイトだった。実家近くの牛丼チェーンでバイトを始めたが、バイトリーダーが深夜帯を守っていることに必要以上に使命感を持っていてそれを自分にも押し付けてきたり、バイトのほとんどが時給以上の仕事をさせられているのに変な達成感を持っていたり、大学生が高校生と交際して、一方では主婦と大学生がなんやかんやあるっぽくて不潔に感じたりして精神的に安定しなかった。

ちょうどこの牛丼チェーンが労働問題に取り沙汰されている時期でもあり、深夜のバイトが来なかったことにより結果的に夜から12時間以上働き、その年初めての雪がつもった朝方の帰り道を気をつけて歩いていた日のことが今でも脳裏に焼き付いている。

人は負荷をかけられることで成長できるという主張がパワハラ批判のカウンターとして今でも効力を持っているようだが、少なくとも自分にとってはこの負荷は(人生における他の負荷と同じく)何の役にも立たなかった。自分は負荷を生かす能力を持っていない、とも言い換えられる。

20歳

大学2年になり、片道2時間の通学に白旗を挙げ、一人暮らしを始めることにした。虫が大量発生したり洗濯物が公道のど真ん中まで吹っ飛んだりして苦労したが、それなりに充実していたと思う。

しかしここから雲行きが怪しくなる。アルバイトは同じ牛丼チェーンの別店舗に移ることにした。手続きが楽だし研修がないというのが大きな理由だった。駅から離れていてその間にライバル店に客足が吸収されるため、かなり暇で楽なバイトだったが、突如店舗が移籍し駅の目の前になってからはあっという間に多忙になった。ここでアルバイトを辞めていればというタラレバは尽きないが、まず肉体的、精神的な健康が損なわれ始めた。

複数のコミュニティで活動を続けていたが、それぞれでうまくいくところとそうでないところの差が出始め、自分のなかで少し苛つきが出るようになっていたと思う。特に学内のサークルでは他人との意思疎通が取れなくなり、学祭ではほぼ孤立しながら出店の準備をしていた。自分が悪いというのは今では整理がついているが薄々と内部からのブーイングが聞こえる中で学祭の期間を終え、その後はサークルに足を伸ばすことが出来なくなっていた。最終日の後、夜通しで期間中に集めた写真を編集して動画を作っていたあの時間が本当に苦しかったが、変に真面目なところが出てしまい義務感で手を動かしていたことを忘れていない。別にサークルの人達が悪いというわけではなくて、主に自分のせいだということは整理がついている。なんか、ついていけなくなってしまっていたんだ。元々そんなことができないのに無理してできるフリをしていたのかもしれない。

学科の新歓合宿で思わぬ裏切りを喰らったのを今思い出した。

それでも活動をストップすることはこの時点では考えておらず、ゼミ候補の教授陣へのインタビューをゲリラ的に敢行したり、全国の総合政策学部・学科の学生によるワークショップの合宿に参加したり、NPOの活動は止めることなく進めていた。あのときは周りの影響か偉そうにする、忙しそうにすることが価値だと思いこんでいて、中身のないアウトプットを繰り返していたように思う。いわゆる「意識高い系」の1人だった気がする。

段々と朝起きれない、授業に行けない、宿題を出せないという、今までの自分だったらありえない怠惰が表面化し、他人に見放される前に自分に対する嫌悪感が増幅していた。とうとう何も出来ずに1日を終えることが増えてきた。打開することも出来ず、最終的には駅前の小さな精神科でうつ病の診断書をもらい、ほぼ無言でバイト先にそのコピーを渡し、そこから3ヶ月くらいまったくなにもしない期間を設けることにした。

自分は誕生日が年度の早めなので、成人式は20歳の終わり頃に来た。中学の同級生と会うことになるのだが、クラスの中心に近いところにいたかもしれないが実際は一人にならないように守備的に暮らしていたので、誰と会っても特段の感想が浮かばず、自分の空虚さに嫌気がさしただけだった。振り返れば精神的な状態が影響していただけなのかもしれないが…。

21歳

なんとなく体も動くようになってきたので、もう大丈夫だろうと思っていたため休学をすることなくなし崩し的に3年生を始めた。しかし、やってみるとゼミに身が入らなかったり、サークルの合宿で自分でもコントロールできない怒り状態になったりしてどうにも上手く行かなかった。結局単位は取った授業の半分も行かなかったと思う。

新しく始めた個別指導のアルバイトも3学期が終わり春季講習に入った時点で連絡を取らなくなった。バイト先ではバックレた講師を全国の講師に配られるプリントに実名で公表するという決まりがあったそうだが、自分の名前が結局どうなったのかは認知していない。どうしても生活リズムが規則的にならない期間が続いていた。

治ったと思ったらそうではなかった、ということを数回繰り返し、再び何もできない生活がやってきた。何もしていないので当然このときのことはあまり良く覚えていない。助けてくれそうな人の手を自分から離すような愚かな行動も何度かしていたと思う。

一番後悔しているのは、オリンピックセンターで7日間泊まり込みの政策コンテストに参加したことだ。周りは東大京大その他名門校の学生揃いで、自分がいることが恥ずかしく、偉くなること、日本を背負うことをまったくもって疑わない彼らの姿勢に(明らかにこっちがおかしいのだが)吐き気がしてしまっていた。結局自分の精神面にとって「カンフル剤」にはならず、その後1週間の放心状態に追いやられるだけだった。彼らは今どのフィールドで戦っているのだろうか。

22歳

大学は4年目を迎えていた。周りは当然就職活動や進学のために動いていた。いや正確には動いていたようだ、という言い方が正しくて、具体的に何をしていたのかは今でも知らないままだ。

一応1次面接や2次面接などは受け、だいたい最初の段階はクリアしていたのだが、やはり精神的な不安からか、次の試験や面接を自ら辞退し続け、やがて就活そのものを停止してしまっていた。

唯一の楽しみはニコニコ生放送をすることだった。あるインディーゲーム(このブログでは度々名前が出ている)にハマり、それを放送したりタイムアタックの大会に出たりするために始めたが、他のゲームも含め色々やっているうちに視聴者はそれなりに増えて、配信者同士での関係も出来ていた。海外の配信者と世界大会を通じて戦うこともあり、当時は存在はしていたものの(言葉としては)ほとんど聞かなかった「eスポーツ」に励んでいたことになる。

ニコニコの中では有名な人と一緒にスプラトゥーンをやったり、クソゲーと名高い『聖剣伝説4』を半泣きになりながらクリアしたり、しゃべるだけで5、6時間放送したり、DDR用の足用コントローラで笑いながらゲームしたりしていた。限られたスペックで配信を工夫したり、動画を作ったりもしたので、このときの経験がなかったら(直接ではないが)エンジニアになろうとは思っていなかっただろう。

こういった場所に落ち着いていくのかな、と思っていたが、結局はニコニコもぱったりと辞めることにした。理由としては、周りに比べてゲームへの熱がなかった(やっていたゲーム以外はめっきり興味がない)ことと、ニコニコでは共通化されているアニメや漫画、ネットミームなどの文脈に関して、概ね把握こそしていたがその良さに共感できていなかったことが大きかった。そういった文脈を前提に置いている場所に遭遇して「つまんねえなあ」と思わないように選んでいたが、それも億劫になったので、22歳の途中くらいだかにニコニコ自体辞める選択をした。他にもネット上の人間関係で面倒なことがあったが、全体に比べたら大きな理由とまではならなかった。アイドルマスターにハマろうとして色々集めていたけど結局全部捨ててしまったのもこの時期。嫌いというわけではなかったんだけど…

22歳のギリギリまで、自分はもとの生活に、にぎやかな空間に戻れるかもしれないという希望を捨てずにいたが、そこにすがろうとしていることが負担になっていることがなんとなくわかり、ついにSNSやLINEの連絡先を99パーセント削除するに至った。数字を増やしていただけの「友達」の存在や、自分の負の記憶と一緒になってやってくる地元の人間関係も、全部なくなってしまった。今現在は人間関係の少なさに悩んでいるが、このときの選択は間違っていなかったと確信している。

結局24歳から入社するSIerへのSESがメインの会社の面接を受け、あっけなく内定をもらうのだが、相変わらず学校にいけない、勉強しても頭が動かない(勉強のために考えるということをしていない期間が長かったので、考え方を忘れてしまっていた)ので単位が足りず、4年での卒業を逃してしまう。結局5年目の前記でも卒業できないのだが、会社は卒業を待ってくれていたことでなんとか社会に参加することができた。こればかりは感謝しても感謝しきれない。

24歳の6月くらいに、入っていたサークルの同級生が卒業式に撮った写真を偶然見つけることになる。その時をきっかけに、自分はもうそこには戻れないんだ、ということを飲み込んだ。恥ずかしいけど、星野源の『化物』を繰り返し聴き、いつか蘇るんだ、ということを言い聞かせていた。ギリギリのところにいた。

23歳

大学5年目。自分の出身校では、これを4年生というのか5年生というのかは未だに知らないままである。残り少しの単位を取るために足を引きずるような気持ちで、人に見つからないようにして学校に通いつつ、確かこの段階で奨学金の支給が途切れてしまったので多めにアルバイトをすることになった(とはいっても週4でたまに連勤するくらい)。

メインのアルバイトは、野球場のフードコートだった。屋台ではなく施設内に常設されている店舗だったので環境は良かったが、自分が主に配属されていたのがエアコンのない半分室外の店舗だったので夏場は汗が止まらなかった。しかしその御蔭で怠惰な生活によって出来た贅肉が落ち、久しぶりに身長-100キロを下回ったこともあってかだんだんと朗らかさが戻ってきた(今はまた10キロオーバーしてしまったので減量している最中。5キロオーバーくらいまでゆっくり落としている)。最初からこういうバイトだったら良かったなあ、とたらればを浮かべながらも、そこで生活のリズムみたいなものを取り戻していったような気がする。

他にも、前述のバイト先の系列である丸の内のレストランや、年末年始の電化製品の販売員、コンサートやイベントの設営や案内スタッフもやったりした。Jリーグのアルバイトは10回行かないくらいやった。J2に上がりたてのアウェーチームのサポーターが、引き分けをもぎ取ってえらく感動していたのが印象的だった。兎にも角にもいろいろなバイトをして、場所が変われば常識や人権感覚?みたいなものも大きく変わるんだなーと思った。

ほぼほぼフリーターのような1年間を送る中で、今の一番の趣味であるラジオにハマり始めた。元々中学のときに『くりぃむしちゅーのANN』をポッドキャストのオープニングトークだけ聴いていて、全編がYouTubeで違法配信されていたので聴いてみたのが始まりだった。3年余りの放送を5週くらい繰り返して、今でも本人たちから当時を思い出させる語録の断片が出てくるとドキッとしてしまうことが多い。銀杏BOYZはそんなに好きではないが、『夢で逢えたら』だけは何度聴いたかわからない。

バイトとともに、日常感覚を取り戻すのに役立ったのがラジオだった。昼のラジオも深夜のラジオも、その曜日が来たら放送が始まってくれる。それまでテンポの概念がなかった生活にチェックポイントができたことで、生活が安定する感覚を得たと思う。つまんねえ奴につまんねえって言って良いんだ、という後押しも得て、ちょっと面倒なことになったこともあるが結果的にはプラスになっているはず。

そして、なんとか単位を得て大学を卒業することができた。卒業式には行けるメンタルではなかったので、諸々の書類をゆうパックにいれて自宅に送付してもらった。これのせいなのか、今でも単位が足りなくて卒業できない夢とか、人生をやりなおすために再度大学受験をしようとしている夢を見ることがある。マンガみたいに汗をびっしょりかいて目が覚めるのだから面白い。

24歳

1年の留年を待ってくれていた会社に入社する。大学は文系でまったく経験がなかったので、1からSEとしての勉強をすることになった。最初に2ヶ月の外部研修をして基本の基本をしれたのは良かったが、あとから振り返ると最新とは程遠い技術を扱っていたり、結局生かされることはなかった社会人としての~みたいな時間が半分近くあったのが退屈だった。このとき、途中で父親が倒れ2日ほど研修を抜けていたのだが、精神が不安定な自分を最終発表のリーダーに指名した研修講師のことを未だに恨んでいる。場合によっては再びつらい日々に戻されるところだった。

結局父親は残暑厳しい季節に亡くなることとなった。目は開いているものの意識がなく、痰をつまらせている父を数ヶ月見舞っていたのでショックはそこまで大きくなかったし、むしろ本人も家族も苦しみから開放されたのかもしれない、と整理した。母親と一緒に葬式や諸々の手続きに忙しかったので感傷に浸る暇もなかったが、生前の父と十分に話せなかったことが後悔として残っている。自分勝手に、せめてと思い墓参りは頻繁に行くようにしているが、戻らないとはこういうことなんだなと知った。有吉弘行がラジオで父親がなくなった芸人を集めて笑い合っていると言っていたが、自分はそっちに入ったのかなと勝手に仲間意識を持った。

墓参りに行くと、普段は得られない静寂に心が落ち着く。まだまだだけど、年を重ねたのだと思う。

大学での苦しみが嘘のようにリズムをたもって仕事をすることが出来ていたが、今も飲み会だけはどうしても苦手である。デシベルが高い中そんな大した話でもないのに声を張らないといけないのが苦痛だし、よく知らない人がいきなり酔っているというのも絶望的に感じてしまう。『ボクらの時代』の規模感がちょうどいい。

そんな中で、自分はずっと人見知りだと思っていたが、実はそれ以上に「他人に興味が持てない」ということがわかってくるようになった。何を聞いたらいいのかわからない。そういうときはありふれたことを聞けばいい、たとえば休日になにをしているとか、家族のこととか、そんなことでいいのだが、それさえも面倒に感じてしまうのである。なので聞かれたときだけはっきりしゃべる、客観的に奇妙な仕上がりになってしまうのである。これは直したい部分。ただ、アルコールには本当に弱いことを実感したので、もう酒を飲まない人生で良いかな、と思うようになった。その後1年位断れずに体調を崩すことが続いてたが、そろそろ1杯目もやめようと思っている。「自分の制御が効かないまま他人と関わる」ことってかなり嫌だと思うんだけど、まあ酒席が好きな人にとってはそういうことじゃないんだろう。

25歳

社会人2年目、なんとか1年間乗り切り、最低限生きる・生活するということに対しての自信を得られたこともあり、エンジニアとしてどう成長するか、みたいな次の段階を考えるようになっていった。情報を漁ったり勉強会に行ってみたりすると最新、とまではないかなくてもモダンな領域を扱っている人たちが羨ましくなる一方で、自分はありふれたというか先がないというか、25歳がやるにしてはちょっと遅くないか?という分野にいることがわかってきて焦るようになっていた。

とはいっても現状でさえいっぱいいっぱいなので、一旦忘れてもう1年目の前のことをやってみようと決めていた。並行してやってみたいことを勉強するものの趣味の範囲を出ることはないので、モヤモヤした感情を持ちながら日々を過ごすことになっていた。

それまでの現場は同じ会社の先輩と一緒にアサインされていたが、偶然的な事情から自分1人で現場に入る事になった(形式上は先輩がいるものの物理的に遠い場所にいる)。この期間が結構苦しかった。稼働時間としては大したことはなかったが、常にアウェーにいる緊張感、常に自分を律していなければいけないこと、自分が知らない文化や作法によって指摘(ときには叱責)を受けることに対して窮屈な状態が半年間ずっと続いていた。会社の事情もあって自分がなんとか耐えきることしかないというのもわかっていたので、ただただ時間がすぎるのをまっていたことばかり記憶に残っている。

そんな場所だったので、飲み会では居場所もなく店の外でフラフラし、帰りは途中下車してトイレに小一時間掴まっていた。たくさん飲んでいたわけではないが、とにかく比喩的な意味で息ができなかった。現場のサンプル数はまだ10もなかったが、こういうことがこれからも続くのかな、と案じた。

段々と社会の流れになれてきたこともあり、「ちゃんと生活する」の目標をほぼほぼ達成したことで、次の不満が出てくる。それはとにかく人間関係が希薄ということだった。大学時代の友人が唯一定期的に会う人だが、それ以外は誰と会うでもなくたまに実家にいきぼーっとする、それくらいだった。どうやって解決していいかはわからないままだ。

26歳

2019年の春に26歳になった。よく3年が一つの転職タイミングである、ということは聞いていたから、キャリアについて低スキルの自分ながら考えるようになった。

そんな中、アジャイル開発というモダンで注目度の高い開発手法を採用する組織へアサインされ、運良く2ヶ月ほどの研修にも参加することができた。ここでの経験は今まで制限があった協働者の立場では得られない視野で問題解決に取り組むことができ、そうそう、イメージしていたエンジニアってこういうことだ、とやっと達成感を得られるようになった。

しかし、研修後に本番ともいうべき本格的な案件に入ることは出来ず、今まで通り大きなプロジェクトの中でごくごく一部の仕事をする日々に戻される事になった。それ自体はもちろん大切だが、自分が全体像を見通せることで意義を感じられることができる人間だということがわかっていたので、明らかに不向きなことをしている、という感覚を振り払うことは出来なかった。

そして、ふとしたときに自分が26歳であるということを見つめ直し、30になる前に「何もしなかった」じゃ済まないな、と危機感を抱くようになった(これもちょっと前のブログに書いている)。

そういうきっかけもあって、スキル不足なのはわかっているものの、自分が出来ない人になる空間じゃないと成長は得られないと思い転職を決意した。もう1ヶ月を切ったが、11月から新しい生活が始まる。不安のほうが大きいが決めたのは自分だということは少し誇らしくもある。

相変わらず人間関係の希薄さとか、他人に興味を持てない欠点とかは残存しているが、少しずつトライアンドエラーを繰り返して前に進もう、という決意だけは出来ている。決意だけだと何も変わらないので、すこしずつ環境をいじって見通しをつけていく。小さな成功体験や、自分が下がっていきそうなときにお笑いライブやプロレスを観て踏みとどまる。そういう地道な生活をするだけだ、と思う。自分でもどれだけ本気かわからないけど、モルックがうまくなればフィンランドに行ってみるのもアリかもしれない。とか。