「アンチが多いもの」を好きになる効能とは
(サムネはJリーグ公式サイトより)
ひとには様々な趣味があり、中には理解しがたいものもあったりする。しかし、それはお互い様なのではないか。目前に迫った優勝を逃した浦和レッズの例を皮切りに考察する。
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2014年の12月6日は、わたしにとってはあまりいい日にはならなかった。
Yahoo!ニュース - 浦和V逸、大宮降格…埼玉サッカー痛恨の日 (埼玉新聞)
~さいたま市のサッカーファンはさぞかし悲しい思いをしているかも知れない。同市出身のわたしも、離れた地からその悲しみを案じている。
とは言っても、わたしはサッカーを語れるほど詳しくはないので、別の観点から書いてみようと思う。というのも、最近になって浦和レッズはやけに嫌われる節があるような気がしてきた。いわゆるアンチの存在だ。生まれながらのレッズサポであるわたしの居心地はもちろんいいものではないが、サッカーに限らず、アンチが多いチームや人物、コンテンツを好きになるということを考えてみたいと思ったのだ。~
1.浦和レッズは人気だけど嫌われてもいる。わたしは理由なく浦和レッズサポーターだ。
浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)がまさかのV逸をおかしてしまった。まさかまさか、J2から復帰したその年に優勝することになったガンバ大阪の影が迫って来るまでは、こんな事態になることは全く考えもしないことであったため、そのショックは並大抵のものではない。更に、ラスト3戦に見せたレッズの脆弱なメンタルによって、自らの手中にあった優勝の証、シャーレを故意に投げ捨てたような展開になってしまったことも、しばらくサッカー関係のニュースを見ないと決断するに至った要因だ。
さいたま市について言えば、同日に大宮アルディージャのJ2降格が決定してしまった。足りなかった勝ち点はたったの1。「妖怪いち足りない」は、こんなところにも出没するのか、という話である。来年はご近所同士がJ1で「さいたまダービー」の舞台で戦う、ということがほぼ期待できなくなり、2015シーズンに対する意欲も薄れてくる。
ちなみに言うと、この二つの悲劇を同時中継したのがテレ玉(旧テレビ埼玉)であった。今となっては貴重な地上波放送だったのだが、局にとっても予想だにしない事態に直面したのであった。
状況説明はこのくらいにして、今回の本題に入ってみよう。……浦和レッズというチームは、なかなかに嫌われいているチームだということを認めざるを得ない。
その理由はいくつかあるのだろうが、例えば、熱狂的でありながらもしばしばいざこざの種になってしまう一部のサポーター(殆どのサポーターは良心的なひとびとであることは間違いない。海外のサッカーと比べれば、子どもが気楽に行けるサッカースタジアムはJリーグの誇るべき部分だ)の存在だ。今年の冒頭には人種差別の意図がある横断幕を掲げ、無観客試合に発展する事件を招いてしまった(ただ、本当にレッズサポーターによるものかは不明)。それ以前にも騒動は度々見られた。
また、チームの補強についても内外から疑問点が吹き出ていることもアンチを招く原因である。監督を含む、レッズのレギュラーメンバーの多くがサンフレッチェ広島でキャリアを積んだ選手であること、いわゆる「生え抜き」の選手が減ってきていること、こうした点から「サンフレッズ」と揶揄されるなど、違和感を覚えさせる要素があるのだ。個人的にはそれでも特段の問題ではないと考えているが、そう思うひとがいてもおかしいことでないのも確かだ。
そんなことがあっても、わたしがレッズサポを辞めることはないだろう、とも同時に感じている。
わたしは、もしもサッカークラブのない街に生まれ育っていたら、おそらく浦和レッズのファンにはなっていなかったかもしれない。しかし、わたしは浦和に生まれたので、自然とサッカー=レッズの関係性の内側にあった。レッズが本拠地を郊外の埼玉スタジアム2○○2に移すまでホームとしていた駒場スタジアムは住宅地の真ん中にあり、わたしの家からも近く、昔は歓声がはっきりと聞こえてくるほどだった。試合の日になれば、窓から赤い服を着たサポーターが違和感なく街を歩いていた。埼スタに移転してからはそういう光景を見ることもほぼなくなってしまった。
さらに余計なことを言うと、昔の駒場スタジアムは簡単に侵入することができた。流石に試合の日に無賃で、なんてことは怖くて出来なかったが、遊んでいるときボールがなかに入ってしまった、なんてときは、壊れているフェンスの場所を知っていたから、そこからするするっと敷地内に入ることができたのである。今は多分無理。
そういう訳で、わたしの周りには自然と浦和レッズがあったし、小学生の時点でサッカーに励んでいたこともあって、いつの間にか自分がレッズサポーターであるという自覚を持っていた。植え付いていた、ということなのだろう。
そして、最近になってこのチームにアンチの存在がたくさん付きまとっていることも分かるようになった。確かに、あまりいい印象は与えないし、尚且つ勝利を手にすることができなかったということで、不満が残るとも言える。……それでも、わたしはレッズサポを辞めることはできないだろう、と自覚している。今更嫌いにもなれない、という感情だと思う。なぜサポーターで有り続けるのか、ということは、なぜサポーターになったのか、ということと同様に、わからないながらも続いていくのだろう。
2.様々なジャンルにある、人気だけどアンチも多いものについて。
話を展開すると、サッカーという分野に限らずこんなことはあるだろう、と考えることが出来る。例を挙げると、音楽のジャンルではさらに激しいファンとアンチの競り合いが見られる。巨大なアイドルグループや、ビジュアルが先行しがちなロックバンド、言動に問題があったり、スキャンダルを起こしてしまうなんてこともアンチを増やす原因になってしまう。ちょっと前のRADWI/MPSだったり、今で言うとSEKA/I NO OWA/RIなんかがそこに当たるかも知れない(実名だしてごめんなさい)。
こういったグループ、また個人はネットや週刊誌、口コミなど様々な場面で叩かれてしまうけれども、同時に応援しているファンの存在も多い、というのが共通点として挙げることができる。そもそもの点で、ファンが多くメディアに取り上げられないとアンチもつきっこないのだし、よくある意見を探せば、アンチは好きの裏返し、というものも考えられるだろう(全てがそこに該当するとは言い難いが)。だから、アンチがついているということは必ずしも悪いことであると断定することはできないのだ。
そして、アンチがいるコンテンツを好きになったひとは、アンチや批判があるからといって、簡単に離れることはできないはずだ。離れられるならそこまでの好意だったわけだし、他人がどうこう言おうと好意を貫くことができるのが本物のファンと言えるのかもしれない。
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(ただ、アンチが発する意見を遮断して受け入れず、盲目的にコンテンツを信じ続けるということはその限りではない。そういう行為は無闇に批判(暴言)することと、方向は違えど同様の行為と言えるからだ。あくまで客観的にそのコンテンツにたいする周辺環境を眺めなければ、その好意は盲目的と言っていいだろうし、自分の「好き」を明確でまっすぐなものにはできない。)
3.それでも好きだ、ということは力になるのだろうか。
アンチがいるコンテンツを好むことは、自分の考え方にどのような変化をもたらすだろうか、と考えてみたところ、それは「ひとの趣向を受け入れられるようになる」ということなのだろう。
わたしは葛藤を通じてレッズサポをこれからも続けていくことになるだろう。サッカーというスポーツをレッズというフィルターなしでは眺めることはできない。長谷部誠や細貝萌、小野伸二といった選手たちは、世間の認識とは少し変化し、わたしのなかでは未だに「元レッズの選手」として捉えているのである。日本代表でも、海外勢でも、なんでもなくレッズ出身の選手だ。だから、サッカーを見続ける限り浦和をスタート地点とし続ける。
こうして客観的な判断をするうちに、他人の趣味に対しても文句が言えない、というか尊重せざるを得ないのだ、と考えるようになった。AK/Bグループが好きなひとがいたとして、わたしは、直感的には好きでも嫌いでもないグループだが、レッズという賛否両論のコンテンツを好んでいるということを加味すると、わたしも一歩間違えればAK/Bを好きになっていたかもしれない、このひとも同じような葛藤を抱えているのかもと瞬間的に考えるようになった。世間では色々言われているが、(仮においたAK/Bファンの)彼は、アイドルひいては音楽をそこをスタート地点として眺めざるを得ないのかもしれない。音楽または芸能という広い世界に通じるルートが、彼にとってはそこだけだったのかもしれない、と仮定すると、彼の趣味に対して領域に侵入するということは簡単なことではないのだ、と思えるようになった。
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世間には様々な趣味があり、新しいもの、人気のものには必ずアンチといった存在がある。それはしかたないことなのかも知れないのだけれど、あるジャンルで自分がアンチのあるコンテンツを愛している場合、その時点で他のジャンルにおけるコンテンツを闇雲に否定することはあまり良心的と言えないのではないか。ファシリテーション的な観点から言及すると、もしも批判を加えるのならば、それなりの理由を持って、論理的にかつ冷静にその意図を説明することが、小競り合いではない話し合いのステップに到達する近道となるのだ。
要は、趣味趣向なんて「お互い様」なのである。「何その趣味!キモッ!」なんて乱暴に発する権利は、ほぼ全ての人間に付与されていない架空の権利なのだ。他人の趣味を尊重しましょう、という簡単なことを、こうも膨らませてしまった。
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