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最近経験した色々なことをひっくるめて、今回は表題のテーマで流れるままに書いていこうと思います。
[フリー画像素材] スポーツ / 運動, 野球, 上原浩治, ボストン・レッドソックス, 日本人 ID:201311062200 - GATAG|フリー画像・写真素材集 4.0
(要約)
スポーツや仕事、どんな活動に関わらず、熟練者になれば「楽しい」と思える機会は希少になり、反比例的に「楽しい」の質は高くなる。このとき、熟練者は偶に訪れる「楽しい」を積極的にアピールしていくべきだ。そうでない限り、追随してくれる初心者は生まれないだろう。
プロ野球選手の「野球が好きです」発言はなぜカッコいいのか?
前々から、プロ野球選手、他のスポーツでもいいし、プロフェッショナルな職能であれば違いはありません、彼らが自分の仕事に対して「好きです」「楽しいです」という発言に対して、異様なまでの感動を覚えていた。鳥肌が立ち、ジブリ映画だったら髪がフワリと逆立つような、あの感じだ。
こうした感動はどうしてやってくるのだろう。気になっていたことだったが、最近になってわかった気がした。それは、プロフェッショナルな人々は「好き」「楽しい」状態になりにくい、という条件下に置かれているためであり、彼らの「好きです」「楽しいです」という言葉はそれだけ貴重、レアであるということに基づいた感動なのかもしれない。
† なぜプロの「好き」「楽しい」はレアなのか
どうしてプロフェッショナルな人々の、その仕事に対しての「好き」「楽しい」という言葉はレアリティがあるのか。表題の野球に例えて説明していこう。
野球を始めたばかりの時は、当然だが、投げる、打つ、守る、走る……このような基本動作を覚える必要がある。そして、(親に無理やりやらされてるとか、そういうのがない限り)ひとつひとつのステップを超えるたびに、野球に対する楽しさが沸き上がってくる。ストライクを投げられた。ヒットを打つことができた。内野ゴロをアウトにできた。学校の授業でソフトボールをやっていたときは、三者凡退を取れただけで目茶苦茶嬉しかった記憶がある。結構珍しいのだ。
こんな感じで、ずっと楽しければいいのだが、中学高校と野球部に入って本格的に球児へとステップを踏めば、楽しいだけじゃなくなってくる。勝負をする敵チームがいたり、自分の部活の中でもライバルとポジションを争わなくてはならない。練習だって地味な練習が続いてしまえば辛いことばかり。ストライク?そんなもの当たり前だ。ストライクを投げて且つ討ち取らなくてはならない。フォアボールなんてしたらもちろんピッチャーの責任だ。ヒット?そりゃあいつかは打つさ。でも、4打席あったら最低でも1回は打たないといけない。ベンチスタートなら1打席で結果を残さなきゃ、使えないヤツと思われてしまう。内野ゴロを捌いても、よほどのことがない限りウマイとは思ってくれない。反対に、エラーをしでかせば、一回のミスで一気に信頼を失ってしまう。
……以前は楽しいと思っていたことが、段々とその範囲から外れてしまう。そうすると、野球が好き、という野球をする上での大前提である心理からも外れていってしまう、そして、なんで野球をしているのだろう、そんなことが不意に心を支配する。
これがプロ野球選手になれば、さらに深刻な問題になる。学生時代はエースで4番、そんな最強と謳われた選手たちが集えば、その中で更に最強を争わなくてはならない。すなわち最強であった選手が最強でなくなる、そのことに気づいてしまうのである。(悪いことではないが)ファンは好き勝手言う。その選手がかつて最強を背負っていたことを忘れ、こいつは使えない、次のトレード候補だ、いやいや、どの球団も拾ってくれないでしょ、いくらでも口にする。2軍球場のやじはダイレクトに響く。野球というスポーツを「楽しい」と思えるための範囲は狭くなる。閾値、つまりハードルが限りなく高くなる。そのハードルを越えることは、年に数回あってもいい方なのかもしれない。
だから、私達は、プロ野球選手の「野球が楽しいです」「野球が好きです」という言葉に、なにかを震わせるのだろう。他のスポーツ選手であっても同じ。楽器演奏にも言えるし、プロフェッショナルな仕事なら、ステップを踏むたびに、必然的に、簡単には楽しめなくなってくる。
GATAG|フリー素材集 壱 – [フリー写真] 野球の応援席に座る女性
† 楽しいは得られにくくなるが、楽しいの質が全く違ってくる
ここまで悲観的に書いたが、救いがないわけではない。熟練者の「楽しい」は、圧倒的に初心者の「楽しい」を凌駕する、ということである。
先ほどの例を再び用いても、楽しいの質が違うことは了承してくれると思う。初心者のヒットを打ったという喜びと、プロ野球選手がホームランを打ったというのとを比較すれば、初心者は自分のささやかなものかもしれないが、プロ野球選手のそれは、そこに至るまでの長い経緯、打った瞬間の開放感、チームや観客、視聴者や聴衆者、選手の家族、様々な、多くの人間の思いを背負っている。スケールが全く違う。やらしい話、お金だって絡んでくる。プロ野球選手にしか出来ない、とても希少で絶大な喜びなのだ。
† 熟練者は99回の「辛い」よりも1回の「楽しい」をアピールしよう
そして締めに入る。今回はこれが言いたかったのだけど、職業であるとか、お金をもらっているとかは関係なく、熟練者はやはり、その活動をする中で楽しいことは(始めた当初よりも)少なくなっているかもしれない。自然と楽しくないことばかり重なってしまうかもしれない。しかしそれでも続けているのは、精神的なものでも物理的に視認できるものでもいい、「希少で絶大な喜び」がその向こうにあることを知っているからである。だから辛いと思っても山を登り、密林をかき分け、吹雪に向かって歩き続けるのである。
わたしはここで、この99回の「辛い」を少しでも和らげるために、サブタイトルの通り、その先にある、または、その前にあった1回の「楽しい」をアピールする必要があるのではないか、と感じた。ネガティブなことばかり漏らすよりも、ポジティブに「失敗しちゃった!でも次頑張ろう!」と立ち直ることで、(直接でないにしろ)周りからの暖かい声援や応援がもらえるのではないか。なにより、熟練者がその活動にたいして「辛い」と口走ってしまえば、そのジャンル、そのコミュニティに立ち寄ってくれる人間は減ってしまう。「あんなにやり込んでいる人が楽しくないなら、自分も楽しくないだろうな」という心理をおこしてしまう。本当は、「熟練者にとっては辛いけど、初心者にとってはとても楽しい」ものであるにも関わらず、初心者にも楽しくないと思われてしまうのである。これは避けたほうがいい。
私も悲観的な正確だし、明らかに嘘をついてまでも「楽しい」と言うのは性に合わない。そういうときは、煩わしくても「この瞬間は楽しくなかったかもしれないが、結局全部ひっくるめると楽しいよ、コレ」という風に表現をしなくてはならないのだ。煩わしいかもしれないが、特に、人に見られる状態で活動している人間にとっては尚更必要な姿勢である。どのスポーツ、その仕事、どの楽器、どの踊り、どの活動にも共通していはずだ。そうでないと、自分と一緒に楽しんでくれる追随者はいなくなってしまうだろう。それはやっぱり悲しい。
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